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仏エズス会士:君王間の架け橋

明清時代には西洋の多くの宣教師が中国を訪れ、中でもフランスのイエズス会士が最も活躍していました。彼らは人数が多く、自ら一つの体系を築き、積極的な活動と柔軟な方法で社会のさまざまな階層へ深く入り込み、当時のキリスト教の布教と中国とフランスの文化・芸術の交流に比較的大きな影響を及ぼしました。

康熙帝年間に中国に訪れた仏イエズス会士は、現在わかっているだけでも五十人おり、中でも康熙二十六年(1687)に中国にやって来た洪若翰(フォンタネ)、白晋(ブーヴェ)、李明(コント)、張誠(ジェルビヨン)、劉応(ビスドルー)の五人が最も重要とされています。彼らはルイ十四世により派遣された宣教団でしたが、ポルトガルの「布教保護権」と衝突しないよう「国王の数学者」として中国に入りました。中でも白晋と張誠は康熙帝の側近となり、康熙帝への影響力も最も大きかったと言えます。

白晋は康熙帝に幾何学を講義していたほか、満文と漢文による「幾何学概論」を編纂し、張誠らとともに約二十本の西洋医薬学に関する講義原稿を執筆しています。康熙三十六年(1697)、康熙帝は白晋にフランスへの帰国を命じ、ルイ十四世に学識の高い宣教師を中国に更に多く派遣するよう求める任務を託しました。フランスに戻った白晋は、ルイ十四世に十万字にも及ぶ康熙帝に関する報告書を提出し、これは後に「康熙帝伝」としてまとめられました。このほか、白晋は当時の中国上層階級の人物を紹介した図説入りの「中国近況人物」も編纂しており、この二つの書物は当時のフランス官民に極めて大きな影響を及ぼしています。翌年(1698)、白晋とともに商船アンフィトリテ号で中国へ向かった宣教師の中で、最も名が知られているのが巴多明(パラナン)です。彼は白晋らが執筆した医薬学講義原稿の基礎の上に、西洋解剖学の著作「欽定骼体全録」を満文で編纂しました。

張誠は康熙帝に西洋学を講義したほか、康熙二十八年(1689)には皇帝の命によりロシアとの交渉にあたり、ネルチンスク条約の調印に成功したため康煕帝に高く称讃されました。

最年長の「国王の数学者」-洪若翰は、中国に渡った当初は南京で布教活動を行っていましたが、ポルトガル宣教師の排斥を受けたため、康熙三十二年(1693)に皇帝の命を受けて北京入りをしました。この時、ちょうどマラリアで苦しんでいた康煕帝は、洪若翰から献上された金鶏納霜(キニーネ)を使用し、病が完治したことから、西洋医学に対する信頼を更に高めたと言われています。

語学が堪能だった劉応は中国の歴史の研究に没頭し、康熙帝の命によりウィグル民族の史書の修正を手掛けたこともありました。

また、天文学を専門としていた李明は、中国に滞在していた五年間、天体研究と称して中国の内地に入り込み、その足跡は黄河流域をはじめ中国各地に及びました。康熙三十一年(1692)の帰国後に出版した「中国近事報道」は、今日においても当時の中国を知ることのできる著作とされています。

一度も顔を合わせたことのない康熙帝と太陽王ルイ十四世との間に、目に見えない堅固な橋をかけたのは、正にこれらのさまざまな実績を残したフランスのイエズス会士だったのです。

ルイ14世の康熙帝宛て書簡(複製) (New window)

ルイ14世の康熙帝宛て書簡(複製)
1688年8月7日 マリにて
手稿(複製)
フランス外務省文書課蔵

西洋堂内康熙31年碑文の抄写 (New window)

西洋堂内康熙31年碑文の抄写
礼部
康熙31年(1692)
縦21.2cm 横134.8cm
故機048795
国立故宮博物院蔵

坤輿全図 (New window)

坤輿全図
康熙13年(1674)刊
南懐仁
縦171cm 横52cm
平図020786-020793
国立故宮博物院蔵

中国当世の人物(New window)

中国当世の人物
白晋(1656-1730)
1697年 パリ
縦37cm 横26cm 厚さ4cm
RES-O2N-31
フランス国立図書館蔵