王献之(344-386)、字は子敬、祖籍(祖先の原籍)は琅琊(現在の山東省臨沂市)、王羲之(303-361)の第七子で、王大令と呼ばれた。書法では父と名声を等しくし、「二王」と並び称される。書史には、王献之の行書と草書はとりわけ優れているとの記載がある。米芾はその書法の生き生きとした変化や自然でのびやかな書風を深く敬い、王献之の「一筆書」の運筆は「火箸で灰をかくように連続的で終始がなく、何ものにも捉われていないように見える」と賞賛した。
この度の展覧会では、「淳化閣帖」に収録されている王献之の書「江州帖」、「疾不退帖」、「消息帖」、「腎気丸帖」を展示する。
米芾(1051-1107)、字は元章、湖北襄陽の人。校書郎、安徽無為軍知事などを歴任。優れた鑑識眼を持ち、徽宗時代に書画学博士に任ぜられ、内府秘蔵の書の数々を目にする機会に恵まれた。本作は草書について論じたもので、晋人の書風を最高の目標だとし、唐代の草書の大家である張旭と懐素、高閑、(上巧下言) 光については遠回しに批判を加えている。晋代の書家を崇め、唐代の書家を貶める論調は、米芾の書論にしばしば見られる。本作の書風は全て二王を元にしたもので、唐人の狂草の影響は一切見られず、理論に実践が伴っているのがわかる。「宋四家真蹟」冊より。
康里巙巙(1295-1345)、西域康里氏。字は子山。順帝時代に翰林学士となった。諡号は文忠。博識で読書家、真書と行書、草書を善くした。書史には、行草は鍾繇と王羲之を学び、筆画は美しくも力漲り、転折は滑らかで力強いとある。また、その書は王献之から始まって米芾に及び、神韻も好ましいと記されている。この尺牘は二王と米芾の筆法を兼ね備えており、運筆は素早く流麗で、墨色は清く潤っている。この書簡は宮廷の同僚に宛てたもので、江南行台架閣庫の管理をしていた葉彦中が受取人である。1329年より少し前頃に書かれたもので、康里巙巙晩年の作である。
緑で輪郭が取られた七層の楼閣式八角宝塔が描かれている。朱を使った蠅頭小楷で禅宗の重要な経典「金剛経」が書いてある。塔の土台部分には二層の蓮弁紋が描かれ、各層の大きな龕にいくつもの小さな龕が収められている。諸仏菩薩や宝塔、羅漢、天王護法が色鮮やかに描かれている。塔全体に小楷で「金剛経」全文が書かれている。第一層中央の大きな龕の仏の頭上にある傘蓋左端から、まず左から右へと書経名『金剛般若波羅蜜経』が記してあり、次に輪郭に沿って大腸のようにぐるぐると回りながら経文が書かれている。そのため、下から上へと逆方向に書かれている部分もあり、塔の中を一周し始まりの箇所に戻って終わっている。経文の書写としては非常に特殊な様式である。