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展示概要

孔子は西周王朝を大いに讃えて次のように述べました。「郁郁乎として文なる哉。吾は周に従わん。」(周の文化は馥郁としてなんともすばらしい。私は周の文化や礼制に従おうと思う。)夏と殷(商)両王朝の文化を継承した西周(紀元前1046年-紀元前771年)は、豊かな文明を育みました。そしてそれは2千年以上もの長きに渡って政治や社会の発展に絶大な影響を及ぼし、古代中国と東アジア各国の礼法や倫理観、道徳規範の形成にも影響を与えました。

優れた農耕技術を有していた周の人々は、紀元前12世紀にはすでに陝西の関中地域に長い間定住していました。そして、岐山や周原、涇水、渭水一帯で強大な国力を蓄え、紀元前1046年頃、各所の部族と力を合わせて遠征し、殷(商)王朝を滅ぼしました。周文王は現在の陝西省西安市の灃川西岸に豊京を築きましたが、後に周武王が川の東岸に都を移し、新たに鎬京を建設しました。これが即ち西周の政治の中心地「宗周」です。その後、周人はしだいに黄河下流域や長江中流域へと勢力を拡大し、西周から東周まで800年の歴史を有する周王朝が築かれたのです。

殷(商)を滅ぼした後、周人は「天命」という概念を打ち出し、道徳を根本として、為政者に道徳的制約を課しました。また、幅広い国土を治めるため、領地として諸侯に分封し、国土の防衛と管理体制を整えました。これが「封建制度」です。さらに宗法制度で定められた同族家族の身分や上下関係、冊封、賞賜、朝貢、謁見、贈答、婚姻などの複雑な儀礼をもって、封建体制下での権利の執行と義務の遂行を確実なものにしました。宗廟で執り行われた祭祀には、こうした制度や儀礼がはっきりと表われています。西周中期から晩期にかけて用いられた、身分階級によって組み合わせの異なる銅製・玉製の礼器一式と、一族の栄誉を長篇の銘文として記録した青銅器は、いずれも礼制が成熟していたことを示しています。

陝西の関中地域は西周の貴族が非常に多く、この地で代々宗廟を守っていました。後の人々は文明の大いに栄えた「赫々たる宗周」の地として遠く思いを馳せました。そのため、この度の特別展では、陝西省の考古学関連及び収蔵機関各所より収蔵品を借用し展示いたします。微氏と單氏一族が所蔵していた文物のほか、弓魚国と芮国の墓葬、周公廟遺跡から出土した貴重な文物の数々を合わせて展示し、西周が中国の歴史・文化にもたらした大きな功績をご覧いただきます。展示品の甲骨文や玉器、長篇の銘文が鋳刻された青銅器によって、『史記』、『尚書』、『詩経』、『国語』などの文献記載の歴代王名や史実を確認することができます。また、周人の宗法と儀礼制度の概念とその価値についてもより詳しくご理解いただけるでしょう。玉器や銅器、金器、陶磁器などの展示品は、降神術や生け贄を奉げるための礼器、装飾品、飲食用の器として実際に使用されていたというだけでなく、西周の工芸技術や科学的発明、美意識などを直接知るための最良の史料でもあります。