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西周の建国と発展

先周時代、周人は幾度か移転を繰り返した後、周原に定住し、この地が殷(商)晩期の西方で重要な地位を占めた方国になりました。その後、武王が殷(商)(紀元前1046)を滅ぼし、周朝が開かれました。西周初期は諸王によって辺境が開拓されたほか、諸制度も整えられました。中期以降は独自の特色ある文化が確立され、列鼎制と芸術様式にも封建制度や宗法制度が反映されました。それは非常に明確でわかりやすく、周辺民族にとっては憧れの対象でした。建国から270年余りの後(紀元前771年頃)、犬戎の兵が鎬京に攻め入りました。周王室は宗周の地を放棄せざるを得ず、成周(現在の河南省洛陽市)に遷都し、その国が「東周」となりました。「西周」は内憂外患によって滅亡したのです。

  • 周王朝の誕生

    周原甲骨に見られる「周」、「王季」、「文王」などの文字は、上古経史の記述を裏付けるものです。岐山で暮らしていた古公亶父は、王季と文王、周朝が開かれる以前の先周史を築いた人物です。銅器の銘文がその証です。武王が殷(商)を滅ぼした後、成王が東方に新しい都市「成周」を建設し、王朝の勢力拡大のため、この都市がもう一つの統治の中心となりました。

  • 近悦遠来─近き者悦び、遠き者来る

    周人は「明徳慎罰」(修養を積んで徳を高め、適切に刑罰を執行すること)を重んじ、礼楽制度も整えられていました。封建諸国もそれぞれ周に従い、近隣の他民族も恭しく服従しました。出土した文物には、服装の異なる他民族の像が多数含まれています。周人の礼制を模倣しながらもそれぞれ特色ある器物を用いており、広大な範囲に影響を及ぼした周文化の集約力が反映されています。

  • 周王による銅器の製作

    西周晩期に政治・経済制度が変革されると、王と貴族の間で激しい衝突が生じました。厲王は追放され、国家の大権は貴族の手に渡り、それは宣王が即位し周を中興するまで続きました。そのため、歴史的に見ても厲王に対する評価は芳しくありません。厲王が製作した銅器は3点が現存しています。故宮所蔵の宗周鐘のほか、この度展示する害夫鐘と害夫簋です。端正かつ精美な銅器には、王者の威風が感じられます。銘文は天地祖先を祀る頌詞で、この文からも周王が規律正しく周礼を実践していたことがわかります。

  • 周の滅亡

    西周晩期には、周と西北地方各民族の間でしばしば戦争が起こりました。展示品の一つ「師同鼎」には、周人が鬼方の侵入を防いだ事が記録されています。周国の地形は防衛上有利とはいえず、幽王の時代に政局に乱れが生じると、その隙をついた犬戎に関中を奪われ、周は滅亡しました。

周公卜甲(New Window) 何尊(New Window) 玉人(New Window) (害夫)簋(New Window) 単五父壺(New Window) 師同鼎(New Window) 新邑戈(New Window) 人頭銎內鉞(New Window)