国立故宮博物院
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法象の威儀彭楷棟先生寄贈文物特別展 The Casting of Religion: An Exhibition of Mr. Peng Kai-dong's Donation
寄贈展の由来| 総解説| 單元說明| 主な展示品|

仏教の彫像

仏教はその源をインドに発していますが、僧侶や商人、旅人などにより伝えられ、また経典の翻訳や筆写、絵姿の彫刻や模写、彫刻職人の伝授と学習、経典の説法などを通してアジアの各地に伝えられました。仏教の伝播ルートははっきりとしていませんが、インド・東南アジア・中国、そして日本と朝鮮の二者には大きな違いが見られます。前者はインドの影響を受け、後者は中国と密接な関係を有しています。以下、各地の発展と各自の特色をご紹介します。

インド・パキスタン・カシミール

インドは西暦1世紀~320年頃、現在のインド北部・パキスタン・アフガニスタン一帯をクシャナ王朝が勢力を誇っていました。ここに君臨していたカニシカ王(約78-144年)は、仏教を国教と定めました。当時仏像彫刻の中心はインド北部のガンダーラとインド南部のマトゥラ-にありました。四世紀が経て、グプタ王朝(319~7世紀)がインドの中部一帯を制するようになり、ガンダーラの地位は以前ほどではなくなりました。しかし、パキスタンのスワット河流域の作品は早期の雕像の特色、例えば丸みを帯びた身つき、肩がけの僧衣、重みのある材質、ヒダはU字形、きちんとした排列などの特色を備えています。そのほか蓮座の厚い花びら、頭側の垂帶はスワット河流域特有のものです。

インドの西北、ヒマラヤ山区のカシミールの彫塑は、地縁的な関係から、ガンダーラの影響を深く受けていましたが、グプタ王朝以後はガンダーラとグプタの両者の特色を融合し、顔の形は丸く、全体的に豊満で、薄い衣が身体に張り付き、その姿態は物柔らかで自然です。

西暦750年頃から年12世紀末にかけて、東インドのパラ王朝とセナ王朝が相継いで強国となりました。両王朝とも仏教を推進し、密教が盛んになり、グプタ美術の基礎を創り上げました。仏像彫刻の特徴は肩幅が広く、腰は細く、衣は薄絹のようですが、ラインはむしろ硬く、華麗且つ精緻で、グプタの柔らかさとは異なり、抽象的で、やや大げさな風格に発展していきました。

ネパールとチベット

ネパールはリッチャヴィ王朝(300-879)より、東インドの金剛乗が流行しました。仏像彫刻では特にタラを崇め、ヒンドゥ教の女神を重視する教理を受け継ぎ、豊かで実りの多い地母神をシンボルとしています。仏像の造型はインドのサルナートとグプタの影響を受け、胸は豊かで臀部は広く、体は円くて衣服は薄着。うなじを垂れ、鼻筋は通り、髪飾りをつけ、形式を重んじています。彫りは細かく、ネパール本土の風貌を有しています。

879年以後、ネワール・サムワット紀年に改め、インドに属しました。10世紀以後、パラ美術の風潮を取り、宝冠や冠の脇の扇形の花の文様、裳裾のヒダ、腕輪などに宝石の象嵌を好み、菩薩の御姿は俗世の帝王に近づいていきました。しかし、ネパールの仏工たちが吸収融合した後、パラの風格を持った仏像本体は厚さを誇張せず、柔和でやさしく、バランスが取れています。13世紀、マッラ王朝(Malla Kingdom, 1200-1482)になると同時に、回教徒が北インドに侵入し、インド本土の仏教は衰え、ネパール本土の風貌が殊更鮮明になり10~13世紀、ネワール工芸はピークを迎えました。菩薩像の姿はしなやかで、バランス良く、顔立ちも精緻で気品があり、耽美の傾向を見せます。

15世紀の鋳造仏像は、なおも華麗な姿を見せていますが、身体の誇張された憤怒像や双身像が増加しました。三王時期(1482-1769)は細かな所が強調され、台座や光背も複雑になり、仏像自身の精神そのものは、むしろ疎かにされた感があります。三王後期及び、その後のシャハー王朝(1769~今に至る)はインド仏教が盛んになり、仏像の鋳造はすでに宗教の目的を失い、質も下降線を辿ります。

チベットは、ランダルマ王の破仏(838-842)前を前弘期とし、10世紀に仏教が再興され、ガンデン派・サキャ派・カギュ派が前後して成立し、14世紀ツオンカパ(1357-1419)が黄教テンギュル派を創立し、ダライ五世(1617-1682)の時政教の大権を掌握しましたが、10世紀後葉からダライの時代を(1642~今に至る)後弘期としています。

後弘期の仏像彫塑は三期に分けることが出来ます。14世紀以前はインドやネパールを倣いました。15~17世紀には本土の風格を形成し、質樸で荒々しく、生命力に満ち溢れています。この時期はヨガ密教美術が大いに発展した時期であり、男女の像或いは怒りや恐れを表した造型はチベット特有の風貌です。18世紀後半は中国化の時期に入ります。清代宮廷内務府の鋳造の像はチベットの図像を形式化し、きれいに装飾が施され、飾りも華麗です。これらはチベットに伝わり、チベットの人に愛され、チベットの鋳造像の風格に影響を与えました。

スリランカと東南アジア

スリランカはインドを除き、初めて仏教を受け入れた国家です。地縁的な関係から、仏教が東南アジアに伝えられる重要なルートとなっており、上座部仏教を主としていました。仏像彫塑の風格はインド西南のアマラバーチの影響を受けています。体は屈強で僧衣は薄く、衣服のヒダは細密で平行しており、半眼で深く考えている様子は穏やかにして荘厳です。13世紀の後、仏教は僅か高原地帯の小国に残されたのみで、仏像の彫塑は姿勢はぎこちなく、衣服のヒダは波形で、非常に形式化しています。

西暦7世紀~10世紀はインドネシア仏教美術の黄金時代でした。8世紀、スマトラのシャイレンドラ王朝と9世紀の中葉にこれを継いで興った中部ジャワのエアランガ王朝は大乗仏教と密教が主流で、タイの中部に影響を及ぼしました。仏像の表情からは安らかで優しい雰囲気が感じ取れます。衣服は薄く、体にピッタリと貼りつき、サールナーの風格が見てとれます。菩薩の光背と台座はパラの風習に関連があります。9世紀の中葉、重心はスマトラに移り、930年、政治の中心は東に移ります。東ジャワ期(930-15世紀)の仏像の風格は前代を受け継ぎ、密教と現地のインド教、特にシバ信仰の混交宗教は一大特色を形成しました。

カンボジアのクメール王朝は本土の文化とインド教・仏教が融合し、9~12世紀はその文化が花を咲かせた時期でした。12世紀の菩薩坐像は頭に宝冠を戴き、玉を繋いだ首飾りをしており、その様子はクメールの菩薩と一致しており、神と王権が結合の下に造られた仏像です。仏像の顔は四角で、額は広く、まぶたには膨らみを持たせ、唇は広くて厚く、クメール族の顔立ちを表現しています。五官は陰刻を用い輪郭を強調しており、胸は厚く引き締まり、衣服も細かい所まで丁寧に彫られており、当時すでに特有な風貌が確立していたことを伺わせています。

タイは仏教を国教としています。タイ族が王国を形成したのは遅く、13世紀中葉のスコータイ王国(1238-1438)が初めてとされています。仏教の発展はスリランカと密接な関係があり、仏像の顔は気品があり、僧衣のヒダは波状のラインでリズム感に富んでいます。パラ美術を吸収した後は自国の特色を大いに発揮し、16世紀以後になると、仏像の衣服はまるで帝王のような華麗さをみせます。1782年、都をバンコクに移した後は、仏像の造型はより華麗さを増し、現在に至っています。

中國

中国の仏教はインドを源としています。また僧侶達の活動を通して、インドとの交流が絶えず行われていました。しかし仏像の彫塑は全く異なる体系へと発展しました。4世紀後半、中国北部の仏像はガンダーラの造像の影響を受け、6世紀北魏の中期になると、その風格はインドのものとは全く別の様子を呈するようになります。仏像の面相は四角い中に丸みを帯び、目は細く弧を描いており、鼻は幅があり、下あごは豊かで、中国の造型の特色を有しています。体には中国式の僧衣をまとい、台座に垂れる僧衣のヒダはその殆どが平面で、畳むように排列され、特別の趣を有し、完全に北魏の特徴を呈しています。こうした様式と処理方法は仏教ルートの伝播と共に、日本や韓国の仏像彫刻に影響を与えました。

唐代の仏像はアジアの仏像彫刻と共通しており、体は円く丈夫で、面相はふっくらとしていて荘厳です。菩薩の腰は細く、肩幅は広く、姿態はなまめかしく、衣服は風に舞っているかの如く躍動感に溢れています。朝鮮半島と日本の仏像の造型は唐代のそれによく似通っています。また浄土信仰が盛んであったために、金銅仏も組み合わせで造るのが流行し、まるで浄土世界の縮図のようでした。宋代の後、中国の仏教は世俗化し、菩薩造型は親切でやさしい若い女性を表現し、その影響力はきわめて大きなものでした。明代になると仏教と世人との距離は更に縮まり、同時にまた因果応報の規律論を簡素化して、造像上に表現し、形式が整い、肌のきめは平板で、張りに欠けていました。

韓國

紀元前1世紀~668年に至る間、朝鮮半島には高句麗・百済・新羅がありました。4世紀後半、三国は勢力争いで対立し、その中の高句麗が勢いよく発展し、5世紀初頭には百済・新羅を破り、強国となりました。6世紀の前葉、高句麗は中国の北魏や南朝の梁と正式に外交関係を持ち、直接北魏や東魏、そして梁朝風格を吸収した同時、百済にも伝えました。7世紀の前葉、高句麗の勢力が次第に衰え、百済と新羅がこれに替わり台頭し、特に新羅が迅速な発展を遂げ、遂に朝鮮半島を統一しました。6世紀末~7世紀初葉の仏像彫刻は中国の北斉と北周の風格が取り入れられ、円柱状の仏体は東魏の平面化的裝飾の趣に取って代わっています。

統一新羅時代(668-935)には新羅と唐の関係は良好でした。7、8世紀のの頻繁な往来により、仏像の顔は丸く、体は柱のようで、裾のヒダは規律良く、シンプルな弧を描いています。8世紀の彫像は唐の長安――洛陽の風格に似ています。高麗時代(918-1392)、新羅の末期には禅宗が盛んになり、仏像の彫刻は減少しました。10世紀の中葉、高句麗は濃厚な復古の風格が表れ、仏像も最盛を極めた統一新羅の風格を模していますが、やや精彩に欠けています

11世紀初頭、遼・宋の新しい造型の影響を受けました。13世紀、蒙古が国境を侵した際にラマ教が高麗に伝来し、仏像もラマ教の作風に変わっていきました。高麗時代の工芸は青磁と文人書画に移り、仏教は絵画が主体となり、彫刻は二度と流行ることはありませんでした。

日本

仏教は日本文化の発展に於ける重要な力の一つでした。仏教が伝来すると、上層の統治者がこれを推進し、寺は皇室と密接な関係にありました。平安時代(782-1185)には、知識分子であり、同時に執政者の身分を有していた貴族が台頭し、仏教は彼らの人生観の一部となっていました。貴族達が建立した自らの寺院はその優雅な情操への追求を表現しています。

飛鳥時代(538-645)と美術史でいわゆる白鳳時代(645-710)には朝鮮半島の百済や新羅の作風の影響を受けました。奈良時代(645-782)唐の文化を模範としました。平安時代(782-1185)は、貴族文化の全盛期ということが出来ます。日本の本土文化の反省と発展を重んじ、仏教は現実生活の必要上を配慮して即身仏となり、仏法で現世の災いを除くことを主張しました。また本土の神道と結合し、地方で早くから流行していた神道像に密教の殿堂を取り入れ、仏壇の守護者とし、より多くの信徒を引き込みました。

平安時代の晩期、別称藤原時代(897-1185)とも言いますが、この時代は貴族文化が最も発展した時期です。仏道の法会や祭典は月令における主題となり、法華経や淨土思想、末法思想が人の心の中に浸透し、後世に伝える為に塚に経典を埋蔵したり、それを以って仏を待ち、極楽浄土が叶うように寺院を建立するなどの風習が盛んでした。鎌倉時代(1185-1333)の早期は奈良時代の風格を模し、仏像の表情は誇張され、強烈な動きが感じられ、一種の爆発力を写実しています。12世紀の末葉には禅宗が興り、絵画が主流となり、雕像は数・質共に衰えていきました。

金銅工芸

彭楷棟氏(日本名:新田棟一)寄贈の文物はその殆どが仏像ですが、そのほか数は少ないものの、礼器・楽器・雑器などもあり、一見する価値がありますので、独立した展示区域を設けました。

楽器の「大晟・姑洗中聲」鐘は宋の徽宗皇帝の礼制と楽制に対する改革の具体的な文物であり、その価値は非凡です。礼器の「人像立耳鬲」などはその活き活きとした姿といい、紋様の華麗な様といい、正に青銅工芸の傑作であると言えます。銅鏡三面は念の入った鋳造作品で、紋様は殊更美しく、漢・唐の威勢を感じとることができます。

動物造形はテーマごとに、三種類に分けました。その一は鳥で、中国西周~漢代の鳥造形の変化をみることができます。その二は獅子です。各種の獅子や仏教護法の獅子が陳列され、相互関係を理解することができます。その三は異獣で、歴代の動物造形文物の逸品です。これらの動物造形は大きな銅器の飾りの一部、あるいは鑑賞用の作品で、それぞれ動物達の形を良く捉えており、温かで元気溢れる様子を見てとることができます。

「大晟鐘」の形は當時、端州が上呈した春秋時代の「宋公戌之謌鐘」六点を模して鋳造されました。現存する「大晟編鐘」は計二十余点あり、高さは27.2~28.8cmで、やや差があります。大小の順に作られている「宋公戌編鐘」に見習い、作られておりました。「稽古」してその模範の度を得たものと考えられます。

大晟樂の音律は,徽宗皇帝の5本の指の長さでその音を定めたと史書に書いてあります。正声の音律が十二、中声の律が十二、清声が四で、計二十八になります。

その銘文には次のように記されています-「黄鐘清」、「大呂清」、「太簇清」、「夾鐘清」、すなわち「清聲凡四(四つの清声)」であり;「南呂中聲」、「姑洗中聲」は、「中聲之律十二」の中の二つの律であります。そのほか「夷則」、「蕤賓」、「無射」、「姑洗」、「林鐘」、「應鐘」は、「正聲之律」にあたります-。

その内、四つの清声が民間の鄭衛の音楽からきており、俗楽が宋朝の雅樂之間に躍り出て、音律の発展を促した点は大晟樂のもう一つの特色であると言えます。

本器の鉦部の両面に篆書で「大晟」の二文字と「姑洗中聲」の四文字が書かれています。台北国立故宮博物院が旧蔵する「夷則鐘」のほかに「蕤賓鐘」があります。