明代初期に確立された高度な中央集権体制は、晩期に至った頃には制度が膠着化し、世宗嘉靖(1522-1566)、穆宗隆慶(1567-1572)、神宗万暦(1572-1620)、そして熹宗天 啟(1621-1627)と思宗崇禎(1628-1643)年間に至ると、 政治腐敗が日増しに進行していましたが、商業はかに発展し文化はより豊かになり、美術市場は活況を呈していました。
明代初期、各地の職人たちは政府のために働く義務があり、官営工房は朝廷の大きな支持を得て、手工業発展の水準を測る基準となりました。しかし、明代中晩期以降、大きな変化がありました。匠戸制度(職人の戸籍制度)にゆるみが生じ、嘉靖時代の職人は銀を納めれば労役を免れることができ、政府は工匠銀で個人の手工業者を雇ってその穴を埋め、官営工房の工芸技術の水準は日ごとに低下し、銀を収めることで自由を獲得した官府の職人は、直接商品の生産を始め、民間の工芸が大きく発展しました。
民間の工芸は、産業経済の発展、市民階級の増加、消費形態の変化によって、社会全体の手工業品の需要が激増したのにともない、手工業技術や美術品の進歩が大きく促されました。大都市には職人街や通りができ、有名な工芸品生産の中心地が形成されました。同時に、手工業者の社会的地位も上昇し、時運に応じてさまざまな職人が現れました。さらには文人たちも工芸品の製作に参与し、民間の味わいが加味され、国際貿易による交流がもたらした国際的な趣、西洋の宣教師が持ち込んだ外国の工芸技術、それぞれが豊かな創作の源となり、明代晩期の多元的な芸術の風格が形成されたのです。
明代晩期、「知行合一」という新しい理学の流行によって、実用性や自然科学の精神が求められるようになり、手工業品の技術に関する著述を刺激しました。天啓年間に編纂された黄大成の「髹飾 錄」は現存する中国古代の漆芸創作の実践に関する唯一の専門書で、宋応星の「天工開物」は明代手工業のさらに偉大な著作です。明代晩期における歴代の経験の総括は、明代の人々を理 解するための重要な資料であるのみならず、その智慧の結晶であり、現代に生きる私たちをも啓発する大きな意義を有するものです。
明代晩期の美術は、主に三つの主力─皇室、文人、商人の交わりで形成されていました。現存する美術品から、以下の三大特色が導き出されます。