
石材の他、牙、骨、竹、木も上古の人々がよく用いた、手に入れやすい材料であった。当時、石材と竹木はどこにでもあり、狩猟や漁で得たものを食物とし、残った牙や骨は彫刻して道具や装飾品にした。竹木は傷みやすく、保存も容易ではない。石材は堅く、研磨や彫刻が容易ではない。牙や骨は両者の中間にあたり、両者の美を兼ね備えており、古代の遺物の中では、古代人の彫刻技芸を最もよく表すものである。
故宮博物院では、数々の名宝を収蔵しており、牙骨彫刻品も少なからずあるが、ほとんどが清一代の遺物で上古の骨器はない。民国86年(1997)、秦孝儀前院長が、長きに渡って収集してきた牙骨竹木の彫刻器を選りすぐり、5~6000年を通した文物─古くは新石器時代晩期の骨を彫刻し石をはめ込んだ大刀、新しいものでは清代末期から民国の牙骨竹木彫刻品、総計237点(単品では296点)を、「玉丁寧館」という書齋名にて本院に寄贈くださった。秦前院長のお心遣いが故宮博物院の発展につながることを願い、この度、その中から精選した文物64点を展示することとなった。
一本の獣の牙を彫刻してあり、切断面は三角形に近く、一端は魚頭型になっている。唇部分から下あごまで穴が開けてあり、吊り下げることができ、側面にも穴一つが開けられている。もう一端は円弧形である。器身中ほどは内側に収縮し、陰線による紋様三段が施されている。穴のある一段は魚頭の文様で、魚身の前段は横向きの獣頭の紋様で飾られている。後段を飾る陰刻線紋はやや三角形となっている。魚の唇部分は銅の錆びで緑色に染まり、側面の穴が開けられていない部分にも銅の錆びがついている。
近年、山東省滕県前掌大村で発見された商代(殷)晩期の墓葬では、商代晩期の大墓5基で彫刻された魚骨1点が発掘された。その長さは12.6cm、全体に緑色を帯びた中に朱色も混じり、紋飾がこの品によく似ている。その他、カナダのロイヤルオンタリオ博物館も類似の器物を収蔵しており、この作品により近いが穴はあいていない。ロイヤルオンタリオ博物館の彫骨魚は、河南で出土したものである。山東省滕県前掌大の商代大墓は、商代のある近隣国家の貴族の墓地で、商代における東方の「商文化圏」と考えられてもいる。
商代康煕に出土した彫骨魚の他、河南省濬県辛村E区第四条発掘溝で、西周初期の小型墓(M72)からも彫骨魚型珮が出土した。大きさは秦孝儀氏寄贈の品に近く(長さ14.5cm)、器形と紋飾にも大差はない。前者の唇部分はやや破損し、もとは穴があけてあったようであり、故に郭宝鈞は「魚形佩系」と名付けた。
獣の角を研磨して作られており、切断面は扁平な八辺形である。中央に方形の穴二つが開けてあり、はめて固定できるようになっている。全体に象牙色を呈し、後ろ半段はすでに銅の錆びで緑色に染まっている。尾の端に近い部分は、褐色の回紋が描いてあり、回紋の一部に傷が付いている。八辺形を呈する切断面の牙、骨、角は、山西省侯馬市上馬村にある春秋中期の墓から出土したが、器表は無地無紋である。しかし、湖北省当陽曹家崗五号墓から出土した、鹿角を研磨して作られた角鑣7点を考古学関係者は「骨鑣」と称し、三式に分類している。Ⅰ式2点は、両端が行く筋かの回紋で飾られ、長さは14cm、形状、紋飾、大きさともに本品と似ている。曹家崗の墓は春秋晩期の楚墓で、墓の主は大夫階級の中でも比較的身分の高い人物である。
戦国時代初期に属する湖北省随県曽侯乙墓では、切断面が四辺形で、漆で紋様が描かれた骨、角質の鑣が多数出土している。これらの鑣は八辺形ではないが、同墓所から出土した、考古学上の報告ではⅠ式「馬鑣形器」の骨角器と称される品が計12点あり、切断面は八辺形である。この他、山東省長島王溝戦国時代初、中期の墓葬の層からは、切断面が八辺形で無紋の骨鑣が出土しており、河南省輝県の戦国時代の墓葬から出土した骨鑣も切断面が八辺形である。
上述の品の他、河南省三門峡市陝県の東周墓からも切断面が八辺形の角鑣が出土しており、全体が褐色の回紋で飾られている。
竹を材料に彫刻した作品。口縁付近に関口が彫ってあり、関門を開けると山石の後ろに重なる。関門の前に二人がおり、頬ひげをはやした老人の一人は、牛にまたがり道を進んでいる。笠をかぶってひげをたくわえた文士が、騎馬でその後ろに随っている。山石を隔てて六名の一行がおり、そのうち騾馬にまたがった四人の文士が道を行き、もう一人はその後に随っている。傍らに桃の花籃をかついだ童子がいる。五人の文士のうち四人が平たい頭巾をかぶっている。山石や人物の間に松の木が浮き彫りにされ、ところどころの透かしから煙が出るようになっている。器の上下の縁にはめ込まれた紫檀が蓋と底になっている。木製の蓋の中央に穴が開いており、ここから煙が出る。
「七賢過関」という題材は、明代絵画や器物によく現れた。当時の人々の多くが唐人であったが、郎瑛は「七修類稿」の中で、「春秋に七人があり、唐に七愛があり、宋に七老があり、建安に七子があったが、賢者とは称さなかった。晋の竹林諸人だけが賢者と称される。王戎は小馬(騾馬)に乗り、山涛は驢馬に乗り、劉伶は鹿車に乗り,その他の者は馬に乗り,ちょうど七人である。後に鹿車が間違って牛に書かれたものであろう。」と指摘している。嘉靖時代の陸深も「余台紀関」の中で、「描かれている衣冠や侍従を見ると、魏晋間の人物に違いなく、乱を避けて疎開するような様子である。」と記している。


