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十八世紀の頃、天山以南回部のウィグル族の指導者であった大小ホージャ兄弟が天山北路の準部で拘束され、清軍が準部を征服してから後、二人は釈放されました。こうしたことがあって、乾隆二十一年(1756)、ホージャが派遣した使者が北京で皇帝に目通りした際、一つの玉碗を献上しました。この玉碗は大清帝国の国威を象徴するものであったため、皇帝はその品にあわせて詩を詠み、それを器表に彫るよう命じました。
「清史稿」には、乾隆二十一、二年の頃、「和卓氏回部台吉和札麥女」が入宮したとの記載があります。この女性は後に「容妃」に封じられた、民間の伝説に言う「香妃」です。現在も新疆のカシュミールに容妃と一族の墓地「香妃墓」があります。文献と御製詩を照合したところ、この回部の玉碗は、香妃入宮とともに宮廷にもたらされた可能性が大きいことがわかりました。
香妃の腰入れは、イスラム玉器が東の中国に伝わる扉を開きました。乾隆三十三年(1768)、清宮廷の回部駐在の官吏が花葉紋の彫刻がある玉盤一対を献上しました。皇帝は玉盤の原作地が北インドであるとの考証を行い、それを「ヒンドゥスタン」と称しました。乾隆帝はことのほかヒンドゥスタン玉器の清雅で温かみのある美しさを好み、その後、大量の美玉がインドやトルコから新疆に運ばれ、北京に献上されました。乾隆帝はインドやトルコの玉器を特に分けず、花葉紋の彫刻があれば「ヒンドゥスタン玉器」とみなされました。
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中央アジア 厚足碗
口径13.6 足径6.2 高5.4cm
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ムガール帝国 彫花盤
長22.9 幅21.7 高1.9cm
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