「皇明宝訓」の記載によると、永楽四年(1406年)に中央アジアの「回回」が玉碗を献上したとあり、「明史」にも明英宗が正統十年(1445年)、ティムールの孫であるウルグ・ベクに「金玉器」を贈ったと記載されています。
十六世紀初め、ティムール帝国は衰亡し、王室はインドに侵入し帝国を築き、その母系がモンゴル族であったため、国号を「ムガール」と定めました。十七世紀、ムガール帝国は栄え、帝王のシャー・ジャハーンは欧州やペルシャの職人を広く集め、欧州・中国・中央アジア・インドの芸術の粋を融合したムガールスタイルの玉彫を確立させました。これらの玉器は花や青果を紋飾とし、堅い性質を持つ玉を以て自然界の力強さを表現しました。ムガール帝国の統治を受けなかったその他のインド地域に於いても、玉器の製作が行われていたと見られています。
中央アジアの突厥族は西へ移動し、西アジアから東欧を跨ぐオスマン帝国を築きました。玉彫芸術は南アジアのインドのように栄えなかったものの、独自の美学伝統を確立しました。特に草花の紋様は対称的で図案化されたものが代表的です。
十八世紀後半、清の乾隆帝は中央アジアの東端を征服し、「新彊」と称しました。ウィグル貴族の女性も清朝皇帝の妃として迎えられています。中央アジア、南アジアおよび西アジア、東欧の大量のイスラム玉器は新彊に集められた後、再び北京に伝えられました。皇帝がこれらの玉器を愛したことから、十八世紀晩期の玉器市場はイスラムスタイルが盛んとなり、新彊から献上された玉器の中には贋作も確認されています。こうした玉器は中国の玉彫職人の異国情緒豊かな作品の製作を刺激しました。
半分に割った瓠瓜型に彫刻された青緑玉。瓜の丸まったへたの部分に6枚の花びらを持つ花が浮き彫りにされており、花の中心に金線とルビーがはめ込まれている。へたの部分から器底に向かって茎と葉が伸び、大きく開いた蓮の花の浮き彫りがある。花や葉の彫刻は自然で生き生きとしている。十七世紀中葉の作品と思われる。この玉杯は1773年に清宮廷に届けられた。乾隆帝が詩を詠み、玉職人に命じて内壁に彫刻させ、宮中でこれに合わせた絹の房飾りも作った。