宋 黄庭堅 苦筍賦
黄庭堅(1045‐1105)、字は魯直、号は山谷道人、涪翁。江西分寧(現在の江西省修水)の人。北宋の著名な詩人で、江西詩派を興した。著作の「山谷集」が知られており、書法にも優れていたことで名高い。行書、草書、楷書のいずれも善くして一派をなした。書法は初め周越を学び、後に王献之、張旭、懐素、顔真卿などを学んだという。縦横に筆を走らせた大胆な筆致が黄氏書法の特徴であり、伝統的な規範とは大きく異なっている。
宋徽宗は、「黄庭堅の書は深く学んだ士が、立派な馬車の上で轡を上下に操り、思いのままであるかのようである。」と述べた。黄庭堅の書法が当時、そして後世に与えた影響は非常に大きく、極めて高い評価を受けて北宋四大家の一人とされた。本作の筆勢は力強く、中心は引き締まって長く外側に広がり、洗練された書風に黄庭堅の大胆で豪放な味わいが感じられる上、片側に寄る動きある美感も表現されている。「宋四家墨宝」より選出。
明 董其昌 白羽扇賦
董其昌(1555‐1636)、進士出身であるがそれほど目だった功績はなく、生涯を通して書画の鑑賞と創作に力を尽くし、明代後期において最も影響力のある
芸術家兼評論家となった。
唐代の名詩人であり宰相でもあった張九齢は、宮廷で権勢を振るった官吏に排斥されたが、玄宗より白羽扇を賜ったため、賦を以って志を明らかにした。物事の道理を理解し、時勢をよく見極めて行動するという意味が含まれている。董其昌が78歳(1632)の高齢で書いた本書はさすがに完成度が高く、秀逸で軽快なリズムが感じられ、尽きることのない味わい深さがある。
清 鄭燮 行書
鄭燮(1693‐1765)、揚州興化(現在の江蘇省揚州市)の人。字は克柔、号は板橋。花卉木石画を善くし、特に蘭と竹を得意とした。書には格別の趣があり、隷楷書が入り混じる中に独自の様式を創出した。鄭燮は豪放磊落な人柄で、幼少時は貧しく、李鱓、金農、高鳳翰などと揚州に遊び、揚州八怪の頭目とされた。乾隆時代初期、試礼部二甲、進士出身を賜る。官位は濰県知県にまで達し、退官後は風流人とともに酒に酔い、存分に山水に遊んだ。
本作は、流れるような筆遣いで行間に力が溢れ、結構も見事である。林伯寿氏寄託。