::: タイトル:展示作品概説

彫刻工芸は人類の工芸美術の中でも最も早期に出現したものの一つです。考古発掘と文献資料をみると、人類は原始社会の時代から、既に大自然に存在する玉、石、竹、木、牙、角、骨などの材料を用い、実用的な道具や装飾工芸品を製作していたことが知られています。材質が違うため、彫り方もそれぞれ異なっていましたが、その中で竹・木・象牙、角や果実の種の彫刻法は比較的似通っています。16世紀、明代の中葉以降、これらの彫刻芸術は独立した芸術部門となりました。

彫刻-その源は遠く長いのですが、殷代以前の手工業はあまりよく知られていません。周代百工は冬官に属していました。その後、各時代の宮中の手工業は盛衰を繰り返しますが、民間の手工業は一定の発展を維持しました。元の時代になると、本来の手工業を突破し、「匠戸」制度が確立されました。当時はそれぞれ異なった工芸職人の管理機関があり、様々な工芸職人が集まっていたため、それぞれの工芸の出現に刺激をもたらしました。

明の洪武帝の初期、工芸職人の戸籍は、完全に元朝の旧戸籍に基づき、変えることはできませんでした。工芸職人の匠籍は世襲制でしたが、皇帝のめがねにかなった優秀な工芸職人は、高い官位にまで昇格することができました。士農工商のトップに当たる文人も、手工芸品を製作していました。

民代の末期になると、一部の工芸職人は自らの技芸を以って家業を確立し、その上、文人と対等に振舞っていました。この時の匠戸制度はすで有名無実となり、志を抱いた多くの工芸職人たちは先頭を争い、家名を上げるために惜しみなく努力し、その結果、開明の士の尊敬と崇拝を受けるまでに至りました。傑出した工芸職人が文人たちとの対等な振る舞いを黙視できず、清初順治二年(1645)五月十九日、朝廷はついに命令を下し、「匠戸」制度を廃止しました。

明代の「匠戸」制度は工芸職人としての身分の束縛を受けましたが、突出した技芸を持ち、皇帝のめでる作品を製作する工芸職人は高い官位を得ることが可能であったため、官位にあずかりたい工芸職人たちは、競って作品作りに励みました。明代の多くの工芸職人たちは非識字者であり、文人から認められようとあくせくとしてこれに努め、文人との交わりを期待しました。学問のほか、工芸職人と文人の往来は相当その技芸に頼るところがあったため、明代中期以後の工芸は、皇帝と文人的重視と奨励、および工芸職人自身の努力の下で勢いよく発展し、彫刻芸術は新たな境界へと邁進したのです。

清朝の康煕・雍正・乾隆の三代、内廷造弁処の彫刻師は在皇帝の支持の下、工芸職人は独自の技巧に磨きをかけ、民間の工房も士大夫と商人の賛助の下で、努力を怠らなかったため、彫刻芸術は究極に域に達しました。その中でも広東象牙職人による、「連鏈」、「活文」、「牙絲編綴」および「象牙多層球」などの工芸は、宮廷内に於いて「仙工」と呼ばれていました。

明代中葉以後の彫刻工芸の発展が独立した芸術部類になった後、朝廷と民間の人々の支持と賛助の下で、彫刻の工芸職人が充分に匠の技を発揮し、彫刻技芸は月日を重ねるに連れて進歩し、より良いものを求め、最後に「仙工」と賞賛されるようになったのです。