北洋政府時代、外交部政務司は清代の西北部国境地図を作成しました。「西北中俄(露)迭次(複数回に渡るの意)分界図附沿革」(上下2枚)と「烏里雅蘇台全図」、「科塔新旧定界合図」、「新疆塔城西南中俄(露)定界図」、「伊犁中俄(露)新旧界合図」、「新疆喀什噶爾中俄(露)定界図」等、西北部国境線各地域の地図5枚です。これらの地図は、「塔城界約」、「中俄(露)改訂条約」及び関連の子約を参考にして新たに作成されたものです。これらを見ると、同治、光緒年間に清朝は西北部の領土約50万km²を失ったことがわかります。
烏里雅蘇台全図
民国初
縱78.5cm 橫51.5cm
北洋政府時代、当時の外交部政務司は清代西北部の中露国境図計7箇所の地図を作成した。本図は上が北、下が南で、図の右上部の説明によれば、図の左下方のボゴスク(柏郭蘇克)から右上方のシャービン=ダバハまでが、中露西北国境線の第一段である。右下の「例言」第一条には、「本図は勘界大臣奎昌作成の烏属定界図を元に作成した。奏摺に添付された図であったため、図上に鈴印と署名などがある。」と記されている。この地域の国境線は、烏里雅蘇台参賛大臣栄全とロシア側の官員が実地調査を行い、科布多参賛大臣奎昌がホブド(科布多)地域の国境線調査を担った。本図の製作者は奎昌の「烏属定界図」を参考にしたと述べているが、誤りのようである。おそらく栄全が作成した「烏里雅蘇台中俄(露)辺境建立碑博図」を参考に、新たに作図したものと思われる。
伊犁中俄(露)新旧界合図
民国初
縱61cm 橫101.5cm
清朝は「中露改訂条約」に基づき、哈密幇辦大臣長順を派遣して伊犁分界大臣とし、ロシア側の官員と共にカーラ=ダバン(喀拉達坂)からナリン=カルガ(那林廓勒)間の境界地点の実地調査を行わせた後、双方は「伊犁界約」を締結した。本図は、北洋政府外交部がその条約内容に基づいて作成した地図である。署名のある正本が紛失していたため、長順が奏摺に添付した地図(伊犁中俄定界図)を参考に新たに作成された。図上の説明から、本図が「中俄(露)西北辺界第五段分図」であることがわかる。中露新疆国境図一揃いが作成されたのである。