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北宋神宗元豊五年(1082)、即ち赤壁の戦いから800余年後、蘇東坡は二度にわたって友人と黄州城西の赤鼻磯を船で遊覧し、かの有名な「前後赤壁賦」の二賦を書き残しました。赤鼻磯が「東坡赤壁」と呼ばれるようになったのもこのためです。

このころ、蘇軾は「烏台詩案」で左遷され、「赤壁賦」には既に過去の人となってしまった赤壁の意気盛んな英雄たちを偲び、命のはかなさと人生の虚偽荒唐への感慨を表し、万物の変と不変に対し極めて豁達にして哲理に富んだ省察を綴っています。こうした個人の苦しい境地にありながら、時空を超えた豁達感を得た蘇軾の赤壁遊覧は、千古の美談として末永く語り継がれることになりました。元、明、清代には赤壁を舞台にした蘇東坡の芝居が数多く上演されたほか、書家の間でも前後赤壁賦が繰り返し臨写され、絵画でも東坡赤壁の盛事を表現した「赤壁図」が数多く描かれました。
 
本コーナーでは極めて貴重な蘇軾の真筆「前赤壁賦」をはじめ、東坡赤壁を題材とした書画が、いかにして背景の異なる文人らの共感を得たのか、また各時代の文人が蘇東坡の抱く歴史への感慨をどのように解釈してきたのか、さらにこの題材の流行がどのようにして職業画家の創作意欲をかき立て、赤壁作品を豊かなものにしてきたかを解き明かしていきます。蘇東坡の赤壁賦が巻き起こした三国の塵埃は、既に三国時代と遠く離れたものではありましたが、変わらぬ山河と移り変わる世事への感慨は、書画家を三国時代へと誘い、それぞれが思い描く赤壁を作品に托すことになったのです。

前赤壁賦
宋 蘇軾
巻 紙本
23.9×258cm
故書00068
前赤壁賦 (New Window)蘇軾(1036-1101)、字は子瞻、号は東坡、四川眉山の人。嘉祐二年(1057)、進士に合格。その文学的地位は崇高であり、書法史においては宋四大家の一人に数えられる。絵画史では文人画を切り開いた北宋の最も重要な文人の一人。

蘇軾の官途は生涯を通して浮き沈みが激しく、神宗元豊二年(1079)秋冬、「烏台詩案」文字獄で黄州へ左遷され、人生と創作の重要な転換点となった。「前後赤壁賦」もこの時期の代表作である。蘇軾親筆のこの「前赤壁賦」は、文学と芸術を一にした極めて貴重な作品と言えよう。本作は神宗元豊五年(1082)七月十六日、蘇軾が友人と船で黄州城外の赤鼻磯を遊覧した時、800余年前の三国時代の孫権が曹軍を破った赤壁の戦いに思いを馳せ、宇宙と人生への感慨深さを綴ったものである。

「前赤壁賦」は友人の傅尭兪(1024-1091)のために書かれたもので、巻末に「昨年に作った賦」とあり、元豊六年、蘇軾が四十八の時の書であることがわかる。また、「今は難儀なことが多い」、「深く隠して表に出さぬよう」と但し書きをしていることから、自らが書いた文章によって受難した蘇軾の恐れおののく心を察することができる。

巻頭が欠損し、三十六字が欠けていたため、文徴明(1470-1559)がこれを補い、細字の楷書で注釈を加えているが、学者の間では実際には文彭が代筆したものと考えられている。全巻を通じて楷書で書かれており、幅のある緊密な結字、豊潤にして重厚な筆遣い、流暢な筆脈などは、早期に学んだ二王(王羲之と王献之)の美しい流動感と、中年になって学んだ顔真卿の重厚で質朴な風格を融合させており、蘇軾の中年のころの代表作である。

 

赤壁図
金 武元直
巻 紙本
50×136.4cm
故画00993
赤壁図 (New Window)武元直は金章宗の明昌年間(1190-1195)の名士で、山水画を得意とした。画中には蘇軾とその友人が赤壁を遊覧している様子が描かれている。頭巾をかぶった蘇軾と二人の友人、船頭一人が、正に「縱一葦之所如,凌万頃之茫然(一葦のゆく所をほしいままにして、万頃の茫然たるを凌ぐ)」の描写の如く、一葉の小舟に乗り、その流れゆくままに任せ、果てしなく広がる水面を進んでいる。対岸には赤壁がそそり立ち、岸辺の松の枝は控え目に曲がっている。細筆で描かれた水紋は穏やかに揺れ動き、「清風徐來,水波不興(清風おもむろに来たりて、水波興らず)」、清風が穏やかに吹いて、川面に波も興らない当時の夜の様子を表現しているようである。

前景の樹木や石は北方で流行していた李郭派の風格を採り入れているが、主山には質朴で短く真っ直ぐな皴を用いているほか、全体を淡墨でぼかしており、李郭派の劇的な筆遣いと画風は見られない。作品全体の質素で上品な画風は、北宋末期に蘇軾らが提唱した文人画の画趣に呼応しており、金代の絵画が北方の伝統と新興の文人画をいかに融合させたかをうかがうことができる。

本作はもともと無款。尾紙には金代の著名文人である趙秉文が正大五年に記した跋文がある。明代収蔵家の項元汴は宋の朱鋭の作品と考えていたが、最近の趙秉文の文集への考察により、金代画家の武元直の画作であるとされた。

仿趙伯驌後赤壁図
明 文徴明
巻 絹本
31.5×541.6cm
故画01055
仿趙伯驌後赤壁図 (New Window)文徴明(1470-1559)、幼名は壁、字は徴明、後に徴仲。十六世紀の呉派の最も影響力のある画家。本作は蘇軾の「後赤壁賦」の内容に基づき、蘇軾と二人の友人が酒と魚を携え赤壁を遊覧している様子を八景に分けて描いている。巻物全体は青緑色で色付けし、趙伯驌の作品を模したものとは言え、顔料の下から浮かび上がる線と用筆が透明感と奥行き感を生み出し、どちらかと言えば元代趙孟頫の青緑山水の文人画風に近い。画中の人物は質素な線で描かれ、岩山は重なるようにそそり立ち変化に富んでおり、奇景に対する文人のゆったりとした上品な趣が表れている。作品には嘉靖戊申(1548)とあり、文徴明七十九の時の晩年の力作である。

巻尾には文徴明の息子である文嘉(1501-1583)が、この作品の描かれた経緯を記している。「呉中地区で所蔵されていたのは伯驌が描いた〈後赤壁賦図〉である。後の人が時の宰相(厳嵩)にこれを献上しようとするが、持ち主がこれを手放したがらず、しかし災いを招くのを恐れたため、原作に基づいて描かれたのがこの作品である」。

清乾隆剔紅赤壁図挿屏 (New Window)

清乾隆剔紅赤壁図挿屏
長さ59.9 幅16.5 高さ63.6cm
中漆44
古0121

漆器の剔紅とは、朱漆を何回も厚く塗り重ねたものに、細密な刀法で深浅異なる文様を彫刻したものである。また、彫刻刀を入れる角度により光の反射具合を変化させ、朱漆の地にあっても多元的で生き生きとした景色を表現することができ、剔紅の精巧なる美しさがここにある。

この赤壁図挿屏は幅46.3cm、高さ40.3cmの画幅に彫刻が施されており、浮き雲と力強い松が切り立った岩とともに左上の一角に配され、右半面には洋々たる水面が広がっている。遙か遠くの山々が画面の奥行きを際立たせ、前景には所々に風になびく葦があしらわれている。穏やかに揺れる苫舟からは、蘇東坡と客の笑談の声や櫂のきしむ音、少年が茶の湯を沸々と湧かす音などが聞こえてくるようである。川面を吹き抜ける清風も、山間からのぞく明月もありありと感じられ、観る者に爽快感を与える。鑑賞者は正に「目を遊ばしめ、懐(おも)いを騁(は)す」、「信(まこと)に楽しむ可きなり」である。挿屏のもう片面には雲龍出水図が彫刻されており、水気が渦巻く仲で三匹の龍が珠を取り合い戯れている様子が実に生き生きと描かれている。この類の龍文は清乾隆時期によく見られ、皇室の尊貴な身分を象徴したものと言えよう。このような図が「赤壁図」の裏表に彫刻されたのは、最も高い地位にあった天子もまた、内心の奥深くでは蘇東坡らのように舟で遊ぶゆったりとした生活に憧れを抱いていたからなのかもしれない。

清鶏血石赤壁図薄意未刻印 (New Window)

清鶏血石赤壁図薄意未刻印
印身4.2×4.3 高さ9cm
金-829
故雑1898
院2933

文人による篆刻は元代末期に始まり、明代には流派が形成されるほど盛んになり、徐々に「詩・書・画」と並ぶ文人の四絶となった。

浙江昌化の鶏血石と福建寿山の田黄石は、どちらも明清時代に好まれた良石で、前者は鮮やかな赤色を呈し、後者は温潤な質感を帯びている。より美しい見栄えのために、印身に寸志を彫り込んだり、精緻な印鈕を取り付けたりしたものも多く、印章の賞玩的趣向が高められた。

この鶏血石は石の自然の色を利用し、壮麗な雲天峭壁と横に乗り出した松の木を彫刻し、広々とした川面を際立たせ、一葉の小舟が彫刻のテーマを物語っている。

「月、東山の上に出で、斗牛の間を徘徊す。白露江に横たわり、水光天に接す。一葦のゆく所をほしいままにして、万頃の茫然たるを凌ぐ。可齋。」

この一節からも「赤壁」を描いたものであることがわかり、銘は草書で刻まれ、趙孟頫の「赤壁賦」を模刻したものと思われる。全体に優雅で変化に富んでおり、清前期における逸品である。