主な図像_天上と人間の世界―儒釈道人物の版画・図絵特別展
 
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展示作品概説
神仏の伝奇
仙人への遥かな道のり
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仙人への遥かな道のり

道教が長生不死と「道」を得て仙人なることを追及するという、道教と神仙物語の結びつきには深い源があります。仙人思想と道教が深く結び付いたのは魏晋時代(265-420)の頃で、煉丹・導引・調息・辟穀・積善行徳という方法で、長生不死・羽化登山(仙人となって天に昇る)を期待しました。ここで展示する作品は本院所蔵の挿絵がある仙人道教の故事で、『仙仏奇蹤』・『新鐫繍像列仙伝』・『列仙酒牌』・『新鐫仙媛紀事』などを取上げ、人が仙人へと移行する様子が多種多様に表現され、それら豊かな想像空間と画面は、生き生きとして精彩に富んでいます。

 

 
老子【大上老君】 (New window)   老子【大上老君】
『三才図会』 明 王圻 撰 明万暦三十七年 (1609) 王氏原刊配補影鈔本
贈善004931-005023 十冊(第十冊) 展開サイズ:28.5×31cm 国防部寄贈
 

老子の本名は李耳で、字を伯陽、号を老聃といい、春秋時代 (紀元前722-481) 末期の思想家で、道家の創始者です。道教では「太上老君」と称され、始祖として祀られ、著書に『道徳経』があります。ただ、『三才図絵』によると、老子は遠く三皇の時代からこの世に何度も生まれ変わったとされています。母の左腋から李の樹の下で生まれました。即ち「白首面黄、長耳矩目、鼻純骨双柱、耳有三漏門、美鬚広顙、…(頭は白く顔は黄色く、耳は長く眼は大く、鼻は双柱で、耳は三つの小穴があり、鬚は美しく額は広く、…)」と描写されています。又、周文王 (紀元前11世紀頃) が西伯という商代 (紀元前1766-1122) 諸侯であった頃に、老子を守蔵吏として召され、宮廷の蔵書を管理させました。周武王 (紀元前1046-1043頃) の時には柱下史として、法令や文物を管理させ、周成王 (紀元前1043-1021) の時代まで仕え、周昭王(紀元前996-977頃)の頃に退官して隠居したと記録されています。葛洪 (283-343) の『抱朴子』に描写された老子像は最も著名で:「身長九尺、黃色、鳥喙、隆鼻、秀眉長五寸、耳長七寸、額有三理上下徹、足有八卦、以神亀為床、…。(身長は九尺、皮膚は黄色く、鳥のように突き出た口、高い鼻、美しい眉は五寸あり、耳は七寸、額には上下に通る三条の紋理があり、足の下には八卦があり、神亀を以って床を支えて、…。)」とあります。伝説では、老子は帰郷して隠居後、青牛車に乗って函谷関へ向かい、青牛車がそこに到着する前に、「道」を好む関令の尹喜は既に東から西に向う紫の気(瑞祥の気)を見て、聖人が間もなく訪れると感じ、自ら出向かえて老子に「道」について問い、老子は直ぐに五千文字の『道徳経』を書いたとされています。

 
張道陵 (New window)   張道陵
『仙仏奇蹤』 明 洪自誠 撰 民国 (1920-1940頃) 武進陶氏石印月旦堂刊本
購善002287-002289 三冊(第一冊) 展開サイズ:29.8×30.6cm
 
後漢時代の張道陵(34-156)は張陵ともいい、道教「天師道」教団の創始者で、「張天師」と呼ばれています。張道陵は七歳にして既に老子『道徳経』に精通し、後に太学の書生になり、五経にも広く通じ、煉丹仙術や降魔除厄の法にも通じ、彼に師事する者は多く、その生涯には豊富な伝奇的な事跡あります。この絵図は、明代 (1368-1644) の洪応明(字は自誠)編纂の『仙仏奇蹤』で、伝説では、「身長九尺二寸、龐眉廣顙、朱頂綠睛、隆準方頤、伏犀賃頂、垂手過膝、龍蹲虎歩、望之使之人可畏。(身長は九尺二寸、大きな眉に広い額、朱の頭に青い眼、高い鼻に四角い顎、鼻柱が山根から額の頂点まで直線になり、両手は膝下まで垂れ下がり、威風堂々とし、見る者を畏れさせた。)」とされています。
 
許真君 (New window)   許真君
『新鐫繍像列仙伝』 明 洪自誠 撰 清道光十三年 (1833) 在茲堂刊本
購善001996-001999 四冊(第二冊) 開いたサイズ:25.8×26.0cm
 

許真君の本名は許遜(239-374)で、東晋時代 (317-419) の著名な道士で、享年百三十五歳の長寿でした。呉猛 (4世紀) に道教を学び、旌陽(現在の湖北省枝江県)の県令に任じられ卓越した功績を残し、許旌陽と称されました。宋徽宗 (1082-1135) の時代に「至道玄応神巧妙濟真君」に封ぜられ、許真君とも称されます。許真君の奇跡的な事跡は実に精彩に富み、道教でよく知られる護衛玉帝霊霄宝殿の四大天師の一人です。伝説では、許真君の母親は中秋の満月の夜、金色の鳳凰が口に含んだ珠を掌に置いた夢を見て、ふざけて呑みこむとお腹に動きを感じて身ごもったとあります。許真君は成長後は経書・歴史の学識が深く、とりわけ神仙の修練術を好みました。許真君は民衆の害を取除く為、蛟を除き蛇を斬り、その後の災いを絶つため、鉄を鋳って柱を作り、鉄線や鉄穴で蛟龍を鎮めました。伝説では彼の仙術は極めて優れ、百三十五歳の時に「仙眷四十二口、同時白日拔宅飛升天、雞犬亦随。(仙人一家四十二人を引き連れ、同時に白日に家を抜いて昇天し、鶏や犬もそれに随った。)」とあり、「一人飛昇、仙及鶏犬(一人が権勢を得ると、一族郎党が出世する)」という成語の由来です。この図絵は『新鐫繍像列仙伝』のもので、芭蕉の葉を持つ許真君の傍らに虎がいます。許真君が虎の喉を治療したという伝奇事跡を基にしたものです。

 
女媧 (New window)   女媧
『天問図』 清 蕭雲従 絵 清初 (17世紀) 刊本
平図006900 一冊 展開サイズ:23.2×26cm
 

女媧の人類創造や天地補修の説話は、中国の古い神話の一つでもあり、戦国時代 (紀元前722-481) 以前に広く民間に伝わっていたものです。『離騒図』には、人頭蛇身で、一日七十変化する、或いは、伏羲と合わせて「二皇」と称され、身体が龍の伏羲は太陽を司り、女媧は月を司りました。民間では「女媧娘娘」と呼ばれ、婚姻を創立し、簧(振動片)を造り笙(管楽器)を作ったとされています。『太平御覧』と『淮南子』覧冥訓には、人類創造と天地補修の神話が記されています。この図絵は、蕭雲従 (1596-1673) が描いた『天問図』のもので、屈原が著した『離騒』の作品の「天問伝」の内容に基づき、女媧が神女蛇身で石柱に蹲りとぐろを巻き、手に持った五色の石で天地を補修したという感動させられる情景です。

 
河伯 (New window)   河伯
『離騷図』 清 蕭雲従 絵 清順治二年 (1645) 刊本
贈善004158-004161 四冊(第一冊) 展開サイズ:26.5×27.5cm 沈仲濤寄贈
 

「河伯」とは黄河の神で、河神も「河伯」と称されます。伝説の河伯は人頭魚身ですが、人頭蛇身、或いは鳥の形をしているとの説もあり、川に棲むスッポンや亀がその官命派遣者です。「河伯娶親(河伯の嫁取り)」はよく知られた民間説話で、昔の鄴(現在の河南省)地方で行われた、女性を以って河伯を祭る風俗奇聞で、河伯を恋多き愛情深い美男子に例えています。そして、『楚辞』九歌は、天地神と人鬼を讃えて祀るための詩で、河伯と洛水の女神の恋愛感情が記されていますが、河伯の乗り物と豪華な屋敷、川に遊ぶ情景などの描写も実に見事です。その詩には:「與女遊兮九河、衝風起兮水横波。乗水車兮荷蓋、駕両龍兮驂螭。登崑崙兮四望、心飛揚兮浩蕩。日将暮兮悵忘帰、惟極浦兮寤懐。魚鱗屋兮龍堂、紫貝闕兮朱宮。(あなたと九河に遊べば、強風が起こり、波が立つ。水の車に乗り、蓮の葉を車蓋として、二頭の龍を駕して、螭を驂 [添え馬]とする。崑崙山に登って四方を眺めると、心が躍り、果てしなく広くなる。日が将に暮れようとするが、喜びの余り帰るのを忘れ、ただ遥かな浦辺を懐かしく思う。そこには魚鱗で建てた家や龍鱗で飾られた広間、紫貝で飾られた珠の御殿がある。)」とあります。この絵図は、清代初期の蕭雲従 (1596-1673) が画いた『離騒図』の中の九歌図で、河伯が龍を御しながら亀に乗って波を蹴立て、魚鱗と紫貝で飾られた御殿に帰る躍動感溢れる場面を描いたものです。

 
雲中君 (New window)   雲中君
『陳章侯繍像楚辞』 明 陳洪綬 絵 明崇禎十一年 (1638) 刊本
贈善003924-003925 二冊(第一冊) 展開サイズ:26.1×29.5公分 沈仲涛寄贈
 

「雲中君」は雲の神です。神話では「豊隆」、又の名を「屏翳」としています。『楚辞』九歌の内の一篇「雲中君」は、雲神を祀る詩歌で、この詩の中で雲中君は五方帝服を身に纏い、神々しく輝かしく秀でた姿に描かれ、「龍駕兮帝服、聊翱游兮周章。霊皇皇兮既降、焱遠挙兮雲中。(龍が車を操り、帝服を纏り、暫くあらゆる場所を周遊する。霊〔雲中君〕は燦然と輝きながら光臨し、瞬く間に雲間に消えていく。)」と歌われています。雲中君は龍に車を操らせ、世間から遠く離れ、四海を周遊し、あっという間に千里の道を進み、東西南北を駆け巡ります。この絵図は、『陳章侯繍像楚辞』のもので、陳章侯とは陳洪綬 (1598-1652) のことで、或いは老蓮と称し、明代末期から清代初期 (17世紀) の文人画家で、中国版画史上に傑出した功績を残しています。図中の雲中君は雲に乗り、落着いて遠くの前方を見つめるという意気高々な様子で描かれています。しかし、民間伝承では、雲中君は若く美しい女神で、日神である東君の伴侶でり、日と雲は何時でも寄添っているそうです。

 
淄川道士 (New window)   淄川道士
『三十三剣客図』 清 任渭長 絵 清咸豊六年 (1856) 刊本
購善002182-002183 二冊(第二冊) 展開サイズ:31.1×30.1cm
 

この図は清代末期の名画家任熊 (1823—1857)(字は渭長)の描いた『三十三剣客図』のもので、「剣俠伝」で述べられた物語人物を描き、剣仙である「淄川道士」の故事は『誠斎雑記』から出ています。読書人の姜廉夫ともう一人の剣仙の美女と縁を結んだ為に身の危険を招き、それを淄川道士が助けたという伝奇物語です。絵には「髑髏儘痴、剣仙如斯。(髑髏は尽く愚かで、剣仙もこの様である)」と題され、物語中の女剣仙は読書人の姜氏は知合う前に既に交際相手があり、後にまた姜氏と恋愛関係になった為、前の相手が命を取りに来たので、剣仙道士はその者を髑髏化し、箱から撒き薬を取り出し、髑髏を水にし手しまったという場景を描いています。図絵の作者は、彼等は剣仙であるとはいえ、女剣仙の感情は不安で、男剣仙がこれほどまでにやきもちを起すものなのかと、感慨にふけっています。淄川道士の士気は落着き払い、超絶した道術と武術が長い袖の内に秘めているかのようです。

 
琴高 (New window)   琴高
『列仙酒牌』 清 任渭長 絵 清咸豊六年 (1856) 刊本
購善002180-002181 二冊(第二冊) 展開サイズ:30.9×30.1cm
 

琴高仙人は琴の名手であったことからこの名が付けられ、道家の始祖である涓子と彭祖の道法を修練し、河北の冀州と涿郡の間を二百余年も遊歴しました。ある日、彼は涿水に潜って龍の子を捕らえると言い、弟子達と「皆潔斎,待於水旁,設祠。(皆心身を清めて、岸辺で待ちなさい。祠を造るように。)」と約束をしました。約束の日時に、琴高仙人は赤い鯉にまたがって水上に現れ、岸に上がると姿勢正しく祠に座り、仙人の捕まえた龍が水から出てくる様子は多くの人々が見ました。その後、琴高仙人は人間世界に一月ほど留まり、また涿水に戻って行きました。道教の故事では、神仙は空を飛ぶ鳥や地を駆ける獣、水中の魚や龍と一緒に出現することが多く、なんの束縛もなく自由に出没でき、天人合一の境地を暗示しています。この図絵は、『列仙酒牌』のもので、琴高仙人が魚に乗り、泰然自若として悠々と水中に遊ぶさまを描き、仙人の水に入ったり出たり出来る、「水解」の一種の情景を呈言しています。飲酒の時に、この酒牌を持つものは、飲酒して魚を食べているものに罰杯として大きな杯で酒を飲ませました。

 
江妃二女 (New window)   江妃二女
『新鐫仙媛紀事』 明 楊爾会 撰 明万暦三十年 (1602) 銭塘楊氏草玄居原刊本
平図002077-002086 十冊(第二冊) 展開サイズ:30.5×29.5cm
 

この図絵は、『新鐫仙媛紀事』のもので、「江妃二女」が語るのは、宋代李清照 (1084-1151頃) の詩句である「漢皋解佩(漢の岸辺で佩を解く)」の典故です。主役は鄭交甫と漢水の畔で偶然出会った二人の仙女で、各々の愛慕の情描き、互いに玉佩を贈ることを求めたという故事を描いています。物語の筋は単純で、優美な雰囲気に包まれ、特に鄭交甫と二人の仙女が楚の国で詩歌を唱和する場面には心動かされます。そして、物語もおぼろげな仙境で幕を閉じる物語には、実に味わい深いものがあります。

 

 

 

 

 

 

 

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