1944年、氏は大学の卒業を待たずして、インド・ビルマ戦区へと召集され、翻訳官となりました。日中戦争の終了後、氏は南京へ戻り、職に就きましたが、1948年8月、留学のため赴美しました。1951年、氏はウォルタークロピウス(1883-1969)に招かれ、その建築事務所に勤め、同時にマサチューセッツ理工学院に推薦され、そこで教えることとなりました。1954年、I・M・ペイ(Ieoh Ming Pei、1917年生まれ。I・M・ペイと表記されることが多いが、漢名は貝聿銘)に誘われ、東海大学のキャンパス共同開発企画に携わることとなりました。そして、ついに1960年9月、台湾に定住するようになり、東海大学で建築学部を開設し、また、独力でリュース記念チャペルの設計、建造と監督をしました。これにより、氏は台湾と切っても切れない関係となりました。氏は建築と絵画の二つの領域において次々と功績をあげ、一世を風靡し、世の脚光を浴びました。