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必見ルート I (約60分)

  • 参観所要時間:約60分
  • 当参観に最適な年代:成人・学生団体
  • 動線企画説明:様々なタイプの文物に興味があり、それ らの文物を通して、中国の歴史の移り変わりを感じたい方は、この参観路線を選び、三階から一階まで、16件ある故宮常設展の素晴らしい展示品を鑑賞されることをお薦めします。

|展示作業に応じて、展示室や展示品が変わることがあります。ご参観当日の情報を基にしてください。 3F動線圖

清 翠玉白菜
01 清 翠玉白菜

3F|展示室 302|南北故宮 国宝薈萃

この作品は100%と言っていいほど、本物の白菜に似ていますが、実は翡翠を彫刻したものなのです。馴染みのある題材で、真っ白な白菜の上方には青緑の葉・・・親近感を覚えます。葉の上に二匹の昆虫が止まっているのも見忘れないでくださいね!これらの昆虫は子孫繁栄を意味しています。この作品は元々紫禁城の永和宮に置かれていました。永和宮は光緒帝の后妃、「瑾妃」の寝宮であった為、純潔無垢であると同時に、子孫繁栄を象徴する后妃の嫁入り道具の一つであったのでは!と推測されています。この翡翠の材質や白菜の造型は、清朝の中・晩期から流行し始めたものですが、こうした題材は元末明初の頃から、すでに職業画家の手により描かれており、吉祥の題材として人気がありました。この他、唐代の詩人「杜甫」もこの葉菜類の野菜を用い、政治の環境が劣悪で、自らが才能を持ちながら不遇であったことを比喩しています。また文人画の伝統的な描写に絵画のテーマとして葉菜類の野菜が引用されており、「杜甫」と同様の心情を表現し、暗に為政者の無能を戒めています。    
乾隆四十年(1775年)、乾隆帝の御製詩<題和闐玉鏤霜松花插>の中で、白菜の形をした花瓶から、「庭役人は野菜の良さを知らないという例えは、芸の戒めの伝統だ」としている杜甫の詩を連想し、警戒心を持ち、詩に:「ホータン産の玉は沢山入ってきており、呉の匠は良い器を製作している。骨董を模しても斬新さが出ている。気風を更に増すにはどうしたら良いのか。野菜の葉は根から切り離され、花瓶の中は空っぽで花瓶の縁は外側に開いている。生け花に似合うのは花野菜だ。緋桃(花が濃紅色の桃)や雪梨(中国梨の一種)は恥ずかしがり屋で婀娜っぽい。民にこの色は無いが、おいしいと云う。芸の戒めか、それとも私をそっと諭しているのか」と。しかし、乾隆帝は、宮廷に於ける工匠、或いは「翠玉白菜」を製作した玉匠のいずれも、主の好みに応じて創作したものであることを信ずると言っていますが、どの作品かは記載されておらず、参観者の皆様に、更に多くの創造空間を与えています。

清 肉形石
02 清 肉形石

3F|展示室 302|南北故宮 国宝薈萃

玉に似た美しい石の中で、石英類のメノウや碧玉等も特殊で、多様な筋状模様と色彩を有しているため、巧みな彫刻が施されています。「肉形石」は碧石の類の天然石で、筋状模様が一層一層積み重なっており、職人は、この天然の特徴を活かして再度加工を加えています。まず、表面に細かな点々を彫り、毛穴を表している他、素地を緩くして染色しやすくしています。次いで表面を褐紅色に染めており、肉の皮は、まるで醬油漬けにしたようです。

山東龍山文化晚期 玉圭
03 山東龍山文化晚期 玉圭

3F|展示室 306|敬天格物―院蔵玉器精華展

龍山文化時期、社会の分化は日増しに明白となり、統治者のみが玉器を使用する資格を有し、玉器を身分の象徴としました。玉器は細長いものを「圭」、幅の広いものを「鉞」(エツ)と称します。この面紋圭は灰黄色で、緻密な質感を呈しており、かつてラマン分光法でネフライト(軟玉)と鑑定されています。造型や紋飾から分析すると、龍山時期に黃河中下流で作られた玉の礼器であるとされており、刃先を上に向けて見ると、中段の辺りに浅い浮彫の一方は具象的な、もう一方は抽象的な面紋が表れます。表側の面紋は、頭に「介」の字形の冠を載せ、円眼、ゆがめた口、むき出しにした牙、そして耳には面紋のイヤリングが付いており、左右それぞれに人頭がぶら下がっています。裏側の面紋は、大きな渦を巻いた目に「介」の字形の冠が配置され、左右には拡げた鳥の翼と牛の角のような突起が見えます。この玉圭は、三千年余りを経て、宮廷に流伝し、乾隆帝はこの玉圭をこよなく愛し、精美な紫檀の台座を取り付け、更に38歳と58歳の時に詩を詠み、その二首の詩を玉圭に刻みました。しかし惜しいことに、台座の配置も二首の詩を刻んだ折も、龍山神祖の面紋とは方向が反対になっています。この30~40年以来、本院は科学を利用して歴史を考察し、清の宮廷の旧贓品を改めて点検した結果、有史以前の玉器に対し全面的に新たな認識を得ることができました。原創者の理念を尊重するため、この玉圭を展示したり出版したりする時は、下向きの刃を上向きにして置いています。

良渚文化晚期 玉琮
04 良渚文化晚期 玉琮

3F|展示室 306|敬天格物―院蔵玉器精華展

この丈の高い玉琮は、十九世紀に清の宮殿に所蔵されたと思われます。なぜならこの玉器の表に乾隆帝の題詩がないからです。そのため、昔のままの姿で保存されているのです。この玉琮は、深緑の中に黄色がかった赤土の斑点のある軟玉(Nephrite)で作られており、表面には切断した時の丸い凹型の痕跡が見られます。丈の高い角柱の上部はやや大きく、下部は小さめの造型で、中央を円孔は上下両方から削ったため、接合箇所に不揃いのステップがあります。円孔の吹き出し口はやや外開きで、下部はまっすぐです。四隅の角は小眼面紋の中心で、上から下に十七節の小眼面紋が彫られている為、この玉琮上には、計六十八個の小眼面紋が彫られています。良渚文化晩期になると玉琮上に小さな眼紋と大眼面紋を組み合わせた花紋の彫刻は減少し、多層の小眼面紋がこれに取って代わりました。またこの種の丈の高い琮の上部の吹き出し口には、きわめて軽く、断続的な細い陰線で神秘的な符号が刻まれていることもあります。例えば、この玉琮の吹き出し口にも、こうした符号が刻まれています。その中の一つは、どの側線もくぼんだ菱形を呈しています。それに対するもう一方の片側の方には、上部が大きく下部が小さい立柱が刻されていて、その下には五つの小さな丸が刻まれています。この符号の意味するところは当時の人達が信奉していた「神鳥」と関係があるのかもしれません。

清中期 白玉錦荔枝
05 清中期 白玉錦荔枝

3F|展示室 306|敬天格物―院蔵玉器精華展

この玉は真っ白で清く、艶があり優しい色合いです。三つの苦瓜のへたや皮の凸凹も彫られており、生き生きとして本物のようです。この玉器は清朝の宮廷では「白玉錦荔枝」,「錦荔枝」と称されていました。即ち苦瓜です。元は、紫禁城乾清宮内に置かれていました。この玉器には、並べておくための台座があり、観賞用に供しています。

西周晚期 散盤
06 西周晚期 散盤

3F|展示室 305| 古代青銅器の輝き―院蔵銅器精華展

この器は、幅の広い浅い盤に高い圈足と2つの取っ手が付いています。腹部の外壁をぐるりと巻いた長い尾の夔龍紋が刻まれており、優雅で落ち着きがあり、盤面に刻まれた350字銘文と互いに映えあっています。銘文には、夨国による散国への侵略が失敗に終わり、夨国の土地を割譲することで決着した経緯が記されており、割譲した土地の範囲および実地検査に参与した官員の職名が、詳細に記録されています。西周時期の散国と夨国の関係は密接で、友好時には婚姻関係を結ぶこともありました。散国は夨国の侵犯行為を有効的に阻止すると同時に、賠償の分も獲得したのです。そこでこの盤を鋳造し、仔細を記録し、功績や人徳を讃え、子々孫々に伝えたのです。

西周晚期 宗周鐘
07 西周晚期 宗周鐘

3F|展示室 305| 古代青銅器の輝き―院蔵銅器精華展

宗周鐘は、扁平で穏やかなカーブを有した長円形の祭祀用の楽器です。口は弧形で、両面には、それぞれ18個の枚(くつわ)があります。舞の部分は雲紋で、篆の位置は斜め向かいの形のS形双夔龍紋で、鼓の部位は中央に左右対称で龍紋がそれぞれ飾られています。鉦間、鼓部に刻まれた銘文は計111字あります。西周晚期の政情は非常に厳しく、西北には玁狁(ケンイン―北方の異民族)の脅威があり、南土諸国も隙を狙っており、内憂外患の下、この器物が作られました。銘文の内容からは、この荒れ狂う世の中を周王の力で以前の様に引き戻し、この朝廷の安泰と永続を願う雄志を伺うことができます。

西周晚期 毛公鼎
08 西周晚期 毛公鼎

3F|展示室 305| 古代青銅器の輝き―院蔵銅器精華展

毛公鼎は、この器の内壁に刻まれた銘文によって国の重宝とされています。銘文は五百字から成る長文で、これまでに知られている青銅器の銘文の中で最長です。銘文の内容は、西周の「宣王中興」の歴史を証明するものです。前段は宣王が毛公に対して行った指示や注意、中段は宣王が即位して間もなく周の文王、武王をしのび、いかにして天命に従い、国家を運営していくかについて述べています。宣王は即位した後、継承した天命に対して恐れ慎みました。銘文の後段では、宣王が毛公に恩賞を贈ったことについて詳しく記載されています。毛公は文末で、宣王に対して感謝の意を示すとともに、この鼎が後世に伝わることを希望しています。銘文は古風な趣と風格を備えた文体で、宣王が毛公に対して諄々と諭したことや、切実な期待、責任の重大への心情を伝えており、今日でも読む人の心に響きます。毛公鼎の形状は非常に素朴です。半球形をした器が、先端が蹄の形をした三本の足の上にあります。器の口縁には厚くて幅のある二つの耳が立っています。全体に光沢があります。口縁の下に簡素な重環紋と浮き彫りされた一条の弦紋が一周しています。その端正な形状、重厚な器壁は、器の内側に刻まれた銘文の素朴な風格、重責を担う毛公への宣王の思いと呼応して、荘重で落ち着きのある重厚感を表しています。

2F動線圖

北宋 定窯 白瓷嬰兒枕
09 北宋 定窯 白瓷嬰兒枕

2F|展示室 205|摶泥幻化—院藏陶瓷精華展

この嬰児の形をした白磁の枕は、嬰児がうつ伏せに横たわり、顔は横向けにして寝台に横たわっています。嬰児の背中の部分は、ちょうど頭を載せる所で、デザインは一種独特です。同時に、この白磁の枕は定窯の優れた成形と装飾技術に加え、神形も兼備しており、可愛らしい仕草の中に富貴な息遣いが感じられます。定窯は宋の時代、北方位置した名窯で、窯場の跡地は現在の河北省曲陽県を中心にあり、この地が、その昔、名が定州であったことから定窯と呼ばれました。当作品は白磁が中心で、優れた成型工芸に加え、釉質もきめが細かくツヤもあります。釉薬の色は白色に僅か黄色味を帯びており、装飾技法も、浅く彫ったり深く彫ったりしており、更に押印紋などもあります。嬰児枕の釉色は白っぽくてまろやかです。頭部と体をそれぞれ成形した後、接合し、次いで顔の彫刻が施されました。特別なことは、これを持ち上げると、枕の中に泥の塊が入っていて、動かしてみると、内壁に塊が当たってカラカラと音がします。これに似た嬰児枕は全世界に僅か3点しかありませんが、本件の釉薬の色の美しさや装飾の精緻さは世界最高です。枕の底には清の乾隆帝の御題が一首刻まれており、流伝に秩序があるため、国宝と称されており、正に「名誉は自ずとついてくる」と言うことができます。

北宋 汝窯 青瓷蓮花式溫碗
10 北宋 汝窯 青瓷蓮花式溫碗

2F|展示室 205|摶泥幻化—院藏陶瓷精華展

十枚の花びらを模して成形されたこの碗は弧形で、器壁が深く作られています。花びらを模した口は全体に均整の取れた波形を呈しています。素地は薄めで、「満釉支焼」(釘などで高台を支えて焼き上げる方法)で焼成されました。全体に淡い青色の釉薬がかけられています。釉薬には潤いがあり、一部に濃い青が混じり、局部には微かに薄紅色の光沢が見られます。器の内外には茶色の貫入(釉薬の表面に現れたひび模様)がっしり入っています。底部は円形で、やや高めの高台はわずかに外へ開いています。底面は縁に沿うように五つの支釘の痕が並び、その痕には薄茶色の胎が露出しています。
河南省宝豊県の清涼寺汝官窯遺跡から、この碗と類似した標本が出土しています。このことから、当時すでに「墊焼」「満釉支焼」の二つの方法が存在していたことが分かります。温碗、注壺は宋代の人々が日常的に使用していた一組の酒器です。河北省宣化地方で発見された遼代の墓に施された壁画と、国立故宮博物院に収蔵されている宋の徽宗皇帝が描いた「文会図」では、この種の酒器の使用状況が具体的に描かれています。汝窯だけでなく中国の南方、北方の官窯や韓国の高麗青磁でも、花びらをかたどった口を持つ温碗が作られていました。中国で作られた碗が比較的深めなのに対し、高麗青磁の作品には酒を入れる器に、口が花びらの形をした浅めの碗を組み合わせていた例が見られます。このほか、南宋の窖蔵(こうぞう。穴倉)から銀器が出土しており、ここから模倣の対象となった原型にまでさかのぼることができます。また金器、銀器の模造品が異なった素材で作られていた当時の流行についてもうかがい知ることができます。

北宋 十一世紀後半至十二世紀早期 汝窯 青瓷水仙盆
11 北宋 汝窯 青瓷無紋水仙盆 十一世紀後半至十二世紀早期

2F|展示室 205|摶泥幻化—院藏陶瓷精華展

広い口と深い壁を持つ楕円形の盆地、平らな足には凸状の狭い縁と4つの雲形があり、円周は薄く、足はやや厚くなっています。胴体は非常に均一な釉薬のスカイブルーで覆われ、底部の釉薬はわずかに淡いターコイズブルーで、口縁と稜線は釉薬の薄い部分に淡いピンクが見らます。足元には6本の小さなステープルの跡があり、わずかにベージュの肉色を帯びています。 釉薬は剥落のない純粋なもので、宋代が雨の通り抜けのような静謐で明るい美観を求めた、希少で上品な色を呈しています。

明 成化 鬥彩雞缸杯
12 明 成化 鬥彩雞缸杯

2F|展示室 205|摶泥幻化—院藏陶瓷精華展

明代晩期の収集家が磁器を鑑賞する際、最も重んじたのが宣徳年間(1426~1435)に製作された「青花」(染付を施した磁器)、次いで成化年間(1465~1487)に景徳鎮(現在の江西省北東部)の官窯(宮廷で使用する陶磁器を製作した官営の窯)の「五彩」でした。当時の人にとって五彩とは、この種の闘彩磁器を指しました。故宮博物院に収蔵されている成化年間製の闘彩磁器のうち、杯に最も多く装飾用の文様が施されました。たとえばブドウの図案の文様を施した葡萄紋杯、遊ぶ子供の図柄を施した嬰戲杯、高潔な人物の姿を描いた高士杯、足の長い杯に花鳥紋を施した花鳥紋高足杯、さらに、広くその名が知られている鶏缸杯などがあります。
清の散文家、程哲の著作『蓉槎蠡説』(ようされいせつ)では、最も注目される器として闘彩鶏缸杯を取り上げており、明の神宗(万歴帝。在位1572~1620)の時代にはすでに「一対で十万銭」の値が付いていたようです。この鶏缸杯は口が広く、胴と腰は短く、底は平らで浅い高台が付いています。器の外側には雄鶏、雌鶏と、それぞれのそばに三羽の雛がいる情景が二面に描かれ、月季花(コウシンバラ)とランの花で仕切られています。また口縁に二本、腰に一本の青い線が記されています。見込み(器の内側)は白く、何の装飾もありません。高台裏には楷書による「大明成化年製」の款識が染め付られています。景徳鎮珠山の官窯の遺跡から、コバルトブルーの顔料のみで染め付けた鶏缸杯の半製品が見つかりました。これと現存する鶏缸杯とを比べると、闘彩磁器の製作工程で、一度焼成した後、青い線の上から各種の釉上彩で絵付けを行い、再び窯に入れて焼き上げたと推測できます。闘彩鶏缸杯の歴史について清朝の『活計档』の記録によると、少なくとも清の雍正年間(1723~1735)まで遡ることができます。現存する鶏缸杯は、外側に華麗な装飾を施した錦匣(乾隆帝が整理し、保管するよう命じた蓋付きの箱)に収められています。

清 乾隆 霽青描金游魚轉心瓶
13 清 乾隆 霽青描金游魚轉心瓶

2F|展示室 205|摶泥幻化—院藏陶瓷精華展

この転心瓶は、内びんと外びんの構造をはじめ、縁が巻いてキリリとした口、長い首、豊かな肩の膨らみ、引き締まった胴、低い圈足があり、肩には4つの丸い輪の形をした耳飾りが付いています。胴の部分は内外2層になっており、内瓶は淡い青綠釉を用い、まるで湖のような背景が表現されており、水草や落花、金魚などが粉彩で描かれています。外びんの底部にも淡緑色の釉が施され、青花を用い、篆書体で書かれた「大清乾隆年製」の款識があります。外びんの腹部には四か所の鏤空彫りの開光(枠にはめた形の装飾)があり、参観される方が瓶の首を握って回すと、外びんの開光を通して、内びんに描かれた水草や金魚の文様が、目の前で走馬灯の様に様にゆったりと、子供が嬉しそうに遊び戯れる様に回転します。故に「轉心瓶」と名付けられました。

1F動線圖

清晚期 雕象牙透花人物套球
14 清晚期 雕象牙透花人物套球

1F|展示室 106|集瓊藻—故宮博物院所蔵珍玩精華展

この文物は象牙を使った鰲魚(ごうぎょ。龍頭、魚尾を持つ立身出世の象徴)をかたどった鉤(かぎ)、二人の仕女(官女)、透かし彫りした球、和合二仙(平和、喜びと楽しみを司る二人の神仙。唐代の二人の高僧、寒山・拾得を指すともいわれる)の垂れ飾り、この四つの彫刻を組み合わせたものです。鉤、仕女、球、 和合二仙はそれぞれ数が異なる環をつなぎ合わせた鎖で連ねられています。球と仕女は小さな球形の螺紋(現在のねじ山)によってつながれています。透かし彫りした球は十八の層から成り、各層が密接でそれぞれ繊細な美を醸し出しています。外層には山水、亭台(展望台)、人物が深く浮き彫りされ、内層には透かし彫りの装飾が施されています。これらの彫刻の美術と風格から、この「彫象牙透花人物套球」は清の中期以降に、広東地方の象牙彫刻職人によって製作されたと考えられます。当時の南派(広東)の職人による象牙工芸である鎖、文様、象牙糸による編綴、複数の層による象牙球等は、北京の宮廷内では「仙工」(天から来た神仙の技)と讃えられました。

清 珊瑚魁星点斗盆景
15 清 珊瑚魁星点斗盆景

1F|展示室 106|集瓊藻—故宮博物院所蔵珍玩精華展

* 暫時未出展

植木鉢に立っているのは植物ではなく、ユニークな造形の塑像です。これは清朝の宮廷内でたいへんに珍重された、縁起の良い盆景です。朱色のサンゴを精巧に彫刻して出来上がったこの主役は北斗七星を右手で高く掲げた魁星です。伝説によると、魁星はもともと非常に学問好きな読書家でしたが、醜い容貌が災いして科挙(官吏の採用試験)を何度受けても合格できませんでした。ついに彼は自棄になって入水自殺を試みましたが、水中の鰲(こう)魚(伝説上の大きな海亀)に救われました。やがて魁星の体は北斗七星の第一星に変わり、科挙の合格や仕官の道の運をつかさどるようになり、科挙の受験生などから信奉されました。この作品は、全身が朱色で頭に角を生やした魁星です。その太い眉、飛び出た眼球、尖った牙をむき出しにした恐ろしい形相はいかにもリアルに表現されています。体には飾り紐がまとわりつき、手には北斗七星と梅の枝を持ち、片足で龍頭魚、波間に現れた翠玉鰲魚の上に立っています。梅は「花の先駆け」を、鰲魚の上に立つのは「鰲魚独占」(科挙に首席で合格すること)を表しています。もう一方の足は後ろに向かって蹴り上げており、北斗七星の主星と相対しています。この「魁星踢斗」(かいせいてきと)の姿態は、科挙の成績がトップになる、科挙の最終試験に通って合格者名簿に名前が載る、などの象徴です。このほか、魁星の周囲にも吉祥の象徴が見られます。植木鉢の四面には五匹の蝙蝠(コウモリ)が「壽」の字を取り囲んでいます。この図案は「福寿」(中国語で蝙蝠の蝠と幸福の福の発音が同じ)と「五福臨門」(長寿、財力が豊か、無病息災、徳を好む、天命を全うする、の五つの幸福が訪れる)の象徴です。植木鉢の中にある太湖石の上の霊芝は吉兆を表し、魁星が持つ梅の枝は、梅が他の花に先駆けて春を迎える縁起の良い花であることを示しています。全体に生き生きと表現された彫刻と精巧なはめ込みの技巧を用い、金、銀および各種の貴重な宝石を組み合わせて吉祥を表現した華麗な作品です。その出来栄えには、ただ驚嘆するばかりです。

明 嘉靖 剔紅雲龍紋小櫃多寶格 木箱を含め計109点
16 明 嘉靖 剔紅雲龍紋小櫃多寶格 木箱を含め計109点

1F|展示室 106|集瓊藻—故宮博物院所蔵珍玩精華展

清の宮廷は明の嘉靖朝の漆箱を多宝格として利用していました。箱の形は4層に分かれ、各層ごとに下から一つ、二つ、三つ、四つの引き出しが設けられており、清の宮廷は引き出し内に、新たに木製の収納区区画を設けました。そこに置かれた文物の大半は清の時代に作られたものです。その内容は、清墨12 点、明清小玉器41点、書法小冊3点、清代の磁器6点、琺瑯で焼き付けた西洋時計7点、清代小画巻と画冊8点、明・清の漆箱6点、銅器3点およびガラス、蜜臘、ビャクダンなどの文具…例えば印石、水差し、文鎮等22点件で、嘉靖 剔紅雲龍紋小櫃を含めると計109点となります。

最終更新日:2024-03-29
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