::: タイトル:果核彫刻芸術

文献や伝世の文物から、果核彫刻には橄欖の種、烏欖の種、くるみの殻、サクランボの種、梅の種、桃の種などが使われていたことがわかっています。単品作品には鑑賞用の装飾品や下げ飾りなどがあり、下げ飾りは身に付けたり、扇子の飾り房として用いられていました。セットになった果核彫刻作品には、朝珠(清代の官吏が礼装時に身に付ける首飾り)や数珠、腕飾りなどがあります。また、果核彫刻工芸で用いられる装飾文様は「文字」、「核舟」(舟の果核彫刻)、「花鳥」、「人物・動物」、「詩句・物語」などに分けることができます。

種の表面に文字を陰刻して装飾とするのは、果核彫刻工芸における最も古い装飾手法であり、宋代のころから既に用いられていましたが、細密な彫刻が要求された明清時代では、文字のみを装飾とした作品はあまり見られませんでした。

また、「核舟」が独立して分類されていることからもわかるように、果核彫刻の中で最も多いのが舟の作品です。その題材も蘇東坡の赤壁舟遊が大多数を占め、「前赤壁賦」や「後赤壁賦」の内容を取り上げています。

このほか、花鳥も果核彫刻によく見られる題材です。各種草花の入った小さな花かご-百花籃はその極致であり、見る者の目と心を楽しませてくれます。

詩句や物語を題材にした装飾には、詩句の内容に基づいて文様を彫ったものや物語の人物のみを彫刻したものなどがあります。蘇東坡の赤壁舟遊を題材とした舟の果核彫刻も、実は「詩句・物語」に分類することができますが、舟を題材とした作品が極めて多いため、「核舟」に独立して分類されています。

現存する資料によると、果核彫刻の職人は呉中一帯と広州付近のおおよそ二つの地域に分布していました。果核彫刻は細密で精緻な彫刻が求められ、名高い彫刻職人の作品には自ずと高い値が付けられましたが、名家は少数に過ぎず、果核彫刻の技芸を習得した彫刻職人も、精緻な作品を作ることができなければ、それだけで生計を立てることはできませんでした。

清 乾隆二年 陳祖章 彫橄欖核舟(底刻「後赤壁賦」全文)(New window)

清 乾隆二年 陳祖章 彫橄欖核舟 (底刻「後赤壁賦」全文)

呂二〇六二補32/故彫182/院1971

高さ1.6cm 縦1.4cm 横3.4cm

橄欖の種を用いて彫刻された小舟で、舟の窓は自在に開閉できる。苫には席文が彫られ、船上には帆柱が立ち、傍らに縄と帆が置かれている。船内の卓上は杯盤狼藉で、蘇東坡(蘇軾)と二人の客が船内に座り、船首には三人の童と一人の船頭がおり、船尾の舵取りを合わると、全部で八人が乗船している。船底には「後赤壁賦」全文三百余字が細刻され、「乾隆丁巳五月,臣陳祖章恭製」が行書で刻まれている。「乾隆丁巳」は乾隆二年である。民国十三年(1924)、溥儀が紫禁城を去った時、この作品は養心殿の華滋堂、または燕喜堂に収蔵されていた「紫檀多宝格提樑長方盒」の中に納められていた。しかし、この箱には二百余点もの小さな文物が納められていたため、この作品は民国十四年(1925)に清室善後委員による点検当時には発見されず、後の発見で点検番号に「補」の字が付けられている。

陳祖章は広東省出身の牙彫職人で、雍正七年(1729)に広東海関監督代理の祖秉圭に推薦され京に送られた。雍正朝において陳祖章の力はそれほど発揮されず、毎月の俸禄は銀三両だったが、この作品を完成させた年末から俸禄はひと月銀十二両に増加し、《活計档》の俸禄記録のある宮廷職人のうち、俸禄が最も多い職人となった。この作品が大きく関係していたのかもしれない。それ以来、陳祖章は雍正朝の普通の彫刻師から、乾隆朝初期には最も重要な牙彫職人となった。

乾隆七年(1742)十一月、陳祖章は「老齢により視力が衰え、歩行も困難なため、帰郷を願う」とし、息子の陳観の付き添いで広東へ戻った。档案には陳観が宮廷に召された時間について記載されていないが、雍正七年から助手として父親とともに宮廷に仕えていたのかもしれない。

明代以降、蘇州一帯に舟の果核彫刻を手掛ける彫刻師が次々と現れ、清代初期の江南にも、明代の遺業を受け継いだ果核彫刻師が存在した。嘉定の封氏は竹彫で名を馳せたが、果核彫刻にも長けていた。封錫祿が宮廷職人だった当時、桃の種で舟を彫刻し、船底に蘇軾〈前赤壁賦〉の中の「縱一葦之所如、凌万頃之茫然(一葦のゆく所をほしいままにして、万頃の茫然たるを凌ぐ)」の二句を細字で二行にわたって刻んだという。陳祖章は広東省出身の牙彫職人でありながら、このような精巧な果核舟を製作したということは、雍正七年に宮廷職人となってから、宮廷内で流行していた蘇州地域の彫刻芸術の影響を受けたものと思われる。この作品は乾隆初期の宮廷彫刻における「蘇州の様式、広東の匠」の具体的な例となった。