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書法

唐 顔真卿
祭姪文稿
巻 紙本 縦28.3cm 横75.5cm

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顔真卿(709-785)、後の世の人々に顔魯公、顔平原と尊称された。山東臨沂の人。李西烈が叛乱をおこした際、魯公は命を受けて投降を勧めに行ったが、貞元元年(785)8月3日、囚われの身となり敵に屈することなく命を落とした。安史之乱(755)では、魯公の従兄である顔杲卿が常山郡の太守として任に就いたが、敵兵が迫り来た際、太原節度使が援軍を送らなかったため落城となり、顔杲卿とその息子である顔李明は落命した。文中には、「賊臣不救、孤城圍逼、父陥子死、巣傾卵履(賊臣は救いを出さず、孤城は包囲され、父も子も死に、巣は破壊された)」とある。その後、魯公は甥の泉明を遣わして遺体を捜索させたが、わずかに杲卿の片足、李明の頭蓋骨しか探し出せず、書きあげたのが「祭姪文稿」である。魯公50歳の時であった。書いた文字を見れば、書き手の人となりがわかるという。魯公一門は忠烈の士であり、生涯を通し凛然と大義を貫いた。その精神が翰墨に反映された本作は、評者がよく例に挙げる作品である。全文に擦り切れた筆を使い、丸みある筆法で流れる篆書のように書かれている。始めから終わりまで、墨は枯れ掠れまた筆を墨にひたし、筆を止めまた書き出しているので、墨色は濃厚な黒から枯れた灰色へと変化に富み、前後合わせて一気呵成に書きあげたものと思われる。


草稿である本作は、途中に塗りつぶされた箇所があり、魯公が文を考えながら書いたことがわかる。始めから終わりまで感情の起伏が見られ、気持ちを抑えられずにいるのが見てとれる。現在にまで伝えられた魯公第一の名蹟である。(文・王耀庭)
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