移至主要內容區
Mobile Menu Button

展示概要

宋代から元代にかけて流行した紈扇(薄い絹布を貼ったうちわ)に替わり、明代から清代にかけては摺扇(扇子)の人気が高まりました。日本で誕生した摺扇は、宋代から元代に中国大陸にも伝えられましたが、ごくわずかな量しかなく、流行となるほどではありませんでした。明代初頭の洪武年間に、明の太祖朱元璋(洪武帝)(1328-1398)が日本の朝貢使節から献上された摺扇を臣下たちに下賜しました。永楽年間になると、折りたためる日本の摺扇を気に入った成祖朱棣(永楽帝)(1360-1424)が、日本の摺扇を模倣したものを職人に作らせました。臣下らは毎年端午の節句に翰林の名手が格言を書した扇面を賜り、これが仁徳の教えに触れる機会にもなりました。宣宗朱瞻基(宣徳帝)(1399-1435)も端午の節句に摺扇を下賜する習慣を踏襲しましたが、自ら筆をとって扇面に字句を書いたものを臣下たちに与えました。摺扇の下賜が慣例になると、官員も常に摺扇を携帯するようになり、摺扇に字句を書き入れる風潮が生じました。

上部が広く下部がすぼまっている摺扇は平面的で広げた時の曲線が美しく、明代の中頃から書画家にも好まれるようになり、独特の芸術様式が生まれました。字句や絵を入れた摺扇を贈るのも盛んになり、沈周(1427-1509)や祝允明(1461-1527)、文徴明(1470-1559)、唐寅(1470-1524)など、呉派を代表する名家の見事な画扇が残されているほか、絵師の作品にも優れた佳作が少なくありません。清代の康熙帝(聖祖愛新覚羅玄燁)(1654-1722)は書法を好んだため、臣下らへの下賜品に字句を書いた摺扇が用いられるようになりました。乾隆帝(高宗愛新覚羅弘曆)(1711-1799)の在位期間中は君臣ともに書法作品が多く、宮中にあった古い摺扇の整理も積極的に進められ、蘇州の織造処へ送って修理させたり、表装させたりしました。清代になると、摺扇は身分にかかわりなく楽しめる芸術文化の一つとなり、縁起のよい絵や文字を書いた摺扇が人気を博しました。碑学が盛んになってからは、摺扇に残碑の識語が書かれるようになり、それまでにない斬新な表現も見られるようになりました。

国立故宮博物院所蔵には質量ともにすばらしい摺扇が収蔵されています。この度の特別展では、「摺扇と宮廷の関わり」、「揮灑酬贈─贈答品としての摺扇」、「懐袖悦目─実用と鑑賞」、「君臣翰墨─主君と臣下の作品」、「雅俗共賞─貴賎の別なく親しまれた摺扇」─五つのコーナーに分けて精選した摺扇と扇冊計38点を展示し、摺扇芸術の発展をご覧いただきます。
 

TOP